赤松則祐
赤松則祐
播磨・備前守護、赤松氏6代当主
1314-1372 · 享年 58歳
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生涯
正和3年(1314年)、播磨守護・赤松則村(円心)の子として生まれる。若くして比叡山に入り律師妙善と称したが、元弘元年(1331年)の後醍醐天皇挙兵に際して還俗し、天台座主・護良親王に従って熊野・十津川・吉野城などを転戦した。建武3年(1336年)、京を追われた足利尊氏が九州へ落ち延びる際、父・円心とともに播磨で後醍醐方を足止めする役目を担い、則祐は感状山城で第二戦線の大将を任された。新田義貞に主力戦線を突破され周辺の支城が次々陥落する中、則祐は感状山城を守り抜き、この功により足利尊氏から感状(戦功を賞する文書)を授かった。この故事が「感状山城」の名の由来となっている。観応2年(1351年)、兄・範資の死去に伴い赤松氏6代当主・播磨守護となり、正平10年(1355年)には備前守護も兼ねた。晩年は室町幕府の禅律方を務め管領・細川頼之を補佐し、応安4年(1371年)11月29日、京都西洞院二条の邸で没した。享年59とも61ともいわれる。
人物像
父・円心譲りの武勇と忍耐力を兼ね備え、50日余りにわたる籠城戦を耐え抜いた実戦派の武将。禅林とのつながりを活かした外交手腕にも長け、幕府の要職も務めた。
歴史的意義
感状山城への奮戦は「感状山城」という城名そのものに刻まれ、赤松氏が播磨・備前・美作の守護として戦国期まで存続する礎を築いた武将として今に伝わる。
さらに深く
家系図
1277-1350
赤松円心
播磨守護。倒幕・南北朝の争乱で活躍した赤松氏の祖。
本人
赤松則祐
1314-1372
─ 完 ─
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