正和3年(1314年)、播磨守護・赤松則村(円心)の子として生まれる。若くして比叡山に入り律師妙善と称したが、元弘元年(1331年)の後醍醐天皇挙兵に際して還俗し、天台座主・護良親王に従って熊野・十津川・吉野城などを転戦した。建武3年(1336年)、京を追われた足利尊氏が九州へ落ち延びる際、父・円心とともに播磨で後醍醐方を足止めする役目を担い、則祐は感状山城で第二戦線の大将を任された。新田義貞に主力戦線を突破され周辺の支城が次々陥落する中、則祐は感状山城を守り抜き、この功により足利尊氏から感状(戦功を賞する文書)を授かった。この故事が「感状山城」の名の由来となっている。観応2年(1351年)、兄・範資の死去に伴い赤松氏6代当主・播磨守護となり、正平10年(1355年)には備前守護も兼ねた。晩年は室町幕府の禅律方を務め管領・細川頼之を補佐し、応安4年(1371年)11月29日、京都西洞院二条の邸で没した。享年59とも61ともいわれる。