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PERSON
尼子経久
尼子経久
山陰の謀将
1458-1541 · 享年 83歳
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生涯
1458年、出雲国の守護代・尼子家に生まれた。1478年に守護・京極氏から守護代の地位を剥奪され、月山富田城から追放された。しかし1484年の元旦の深夜、少数の手勢で月山富田城を奇襲・奪還するという劇的な反転に成功した。この一事で智謀の将としての名声を確立した経久は、以後二十年かけて謀略・調略・軍事を巧みに組み合わせ、出雲から山陰・山陽の諸国へと勢力を拡大した。最盛期には11カ国に影響力を持ち、中国地方最大の実力者となった。北条早雲・毛利元就と並ぶ「謀聖」「策謀の天才」と後世に称えられる。1537年に家督を孫・晴久に譲ったが実権を保ち続け、1541年に84歳で没した。その後、孫・晴久の治世では1566年に毛利元就に月山富田城を陥落させられ、尼子氏は滅亡した。経久の長大な謀略と治世が尼子氏の隆盛を支えた一方、後継者の育成には課題を残した。尼子経久の居城・月山富田城跡(島根県安来市)は山陰随一の山城として知られ、経久の卓越した謀略と治世の記憶を今も伝えている。
人物像
謀略に長け「謀聖」と称されるが、家臣への恩賞も厚く人心掌握に優れていた。一度追放された経験から権力の脆さを知り、常に臨機応変の対応を心がけたとされる。
歴史的意義
出雲の小守護代から山陰の大大名へとのし上がった下剋上の体現者。月山富田城は戦国屈指の山城として知られ、尼子氏の遺産として今も山陰の歴史を語る。
逸話・エピソード
尼子十旗・尼子七難八苦——中国地方の覇者を育てた底力
尼子経久は守護代という立場から主家・京極家を追放し自ら出雲の実権を握った。一度は大内義興に本拠・月山富田城を落とされ放浪の憂き目を見たが、わずかな手勢で再起して月山富田城を奪還した。この不屈の精神と謀略の巧みさから「謀将」と称された。尼子氏は最盛期に山陰・山陽・播磨・備前など11カ国に及ぶ勢力を誇り、「尼子十旗」と呼ばれる十人の重臣が各地を守った。後に毛利元就に滅ぼされるが、孫・勝久を奉じた山中鹿之介による再興運動は「尼子七難八苦」として語り継がれる。
─ 完 ─
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