1547年、尾張国の安井重継の子として生まれ、後に浅野長勝の養子となった。養父の娘・やや(秀吉の正室ねねの妹とも伝わる)を娶ったことで、秀吉との義兄弟の関係が生まれた。この縁を活かして秀吉に仕え、早くから奉行職として頭角を現した。1590年の小田原征伐後の甲斐国検地、文禄・慶長の役における兵站管理など、豊臣政権の重要な実務を歴任した。石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家とともに「五奉行」を構成し、その筆頭として政権運営を担った。1598年に秀吉が死去すると、文治派の三成と武断派の武将たちの対立の中でバランスを取りながら幕府との関係を模索した。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して徳川家康を支持し、戦後は謹慎隠居した。浅野家は後に長男・幸長が和歌山藩主、孫の代に広島藩47万石の藩主となり幕末まで続いた。1611年に65歳で没した。