足利政知
足利政知
堀越公方
1435-1491 · 享年 56歳
ま だ 出 会 っ て い ま せ ん
伝堀越御所跡を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
へぇ、と思う三話
鎌倉に入れなかった公方——堀越御所の成立
長禄2年(1458年)、政知は幕府の命により新たな鎌倉公方として関東へ下向した。しかし鎌倉は敵対する足利成氏方の勢力下にあり、政知はついに一度も鎌倉に入ることができなかった。伊豆国に留まって陣を敷いたが、長禄4年(1460年)に陣所の国清寺を成氏方に焼き討ちされ、やむなく伊豆国堀越に御所を構えた。以後、政知は「堀越公方」と呼ばれ、その支配は伊豆一国とその周辺にとどまり続けた。発掘調査では遣り水や滝口を持つ池庭の跡が見つかっており、公方の御所にふさわしい洗練された暮らしぶりがうかがえる。
伊勢宗瑞(北条早雲)による堀越御所の攻略——後北条氏の関東進出の端緒
延徳3年(1491年)に政知が没すると、長男・茶々丸が異母弟・潤童子と継母・円満院を殺害するクーデターで家督を奪った。この内紛に乗じて、駿河の今川氏に仕えていた伊勢宗瑞(後の北条早雲)が明応2年(1493年)に堀越御所を攻略し、茶々丸を滅ぼした。これにより堀越公方はわずか一代で滅亡した。伊豆を平定した宗瑞はこの地を足がかりに相模へと勢力を広げ、戦国大名・後北条氏五代の礎を築いた。堀越御所の落城は、関東における戦国時代の幕開けを告げる出来事の一つとされる。
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生い立ちから最期まで
永享7年(1435年)、室町幕府6代将軍・足利義教の四男として生まれた。幼くして出家し天龍寺香厳院主となったが、享徳3年(1454年)に鎌倉公方・足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した「享徳の乱」が勃発し関東が争乱状態に陥ると、幕府は成氏に対抗する新たな鎌倉公方として長禄元年(1457年)に政知を還俗させ、翌長禄2年(1458年)に関東へ下向させた。しかし成氏方の抵抗で鎌倉に入ることができず、伊豆国に留まった。長禄4年(1460年)、陣所としていた国清寺が成氏方に焼き討ちされたため、伊豆国田方郡堀越(現・静岡県伊豆の国市)に御所を構え、以後「堀越公方」と呼ばれた。政知の実効支配は伊豆一国とその周辺の一部にとどまり、鎌倉公方本来の権威を回復することはできなかった。文明14年(1482年)、幕府と古河公方(成氏)が和睦し、伊豆一国のみが政知の分国として確定した。晩年は側室・円満院との子である次男・足利義澄を将軍に就けようと画策したが、延徳3年(1491年)4月3日、堀越御所で57歳(満55歳)で病没した。政知の死後まもなく、長男・足利茶々丸が異母弟・潤童子と円満院を殺害するクーデターを起こして家督を奪ったが、明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)の攻略により堀越御所は落とされ、堀越公方はわずか一代で滅んだ。この「伊豆討ち入り」は後北条氏による関東進出の端緒となった。政知の血筋は次男・義澄が室町幕府10代将軍となり、以後15代将軍・足利義昭に至るまでの歴代将軍は政知の子孫が継いだ。
人物像
幼くして出家した経歴を持ち、還俗して鎌倉公方の重責を担うことになった人物。関東の在地武士団からの支持を得られず、鎌倉入りすら果たせなかったことから、政治的・軍事的手腕には恵まれなかったとみられる。晩年は我が子を将軍に就けることに執心し、家督をめぐる家庭内の対立の火種を残した。
歴史的意義
堀越公方としての政知の実効支配はごく限定的であったが、伊豆国堀越御所跡(伝堀越御所跡)は発掘調査により遣り水や滝口を備えた池庭の跡が確認され、公方にふさわしい都風な生活が営まれていたことを伝える貴重な遺跡として国の史跡に指定されている。政知の死後に子・茶々丸を滅ぼして伊豆を奪った伊勢宗瑞(北条早雲)は、この地を足がかりに関東進出を果たし、戦国大名・後北条氏の礎を築いた。政知自身の血筋も次男・義澄が10代将軍となって以降、幕末の15代将軍・義昭まで続く室町将軍家の系譜として続いた。
家系図
本人
足利政知
1435-1491
長男
不詳-1498
足利茶々丸
政知死後にクーデターで家督を奪うが、伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされた。
─ 完 ─
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