長宗我部国親
長宗我部国親
長宗我部家再興の祖
1504-1560 · 享年 56歳
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楠目城を訪れると出会えます
ゆかりの地 2か所
長宗我部国親を訪ねる
2 ヶ所
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生涯
永正元年(1504年)、土佐国の国人領主・長宗我部兼序の嫡男として生まれた。幼名は千雄丸。永正6年(1509年)、父・兼序が本山茂宗らに攻められて岡豊城で敗死すると、6歳の国親は家臣に守られて幡多荘中村へ逃れ、土佐一条氏の庇護を受けた。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により旧領の江村・廿枝郷を回復し、岡豊城主として長宗我部家を再興した。以後、細川高国から「国」の偏諱を受けて国親と名乗り、周辺の国人領主を次々と攻略。天文16年(1547年)以降、大津城の天竺孫十郎、下田城の下田駿河守、楠目城の山田元義らを謀略や実力で次々に討ち、長岡郡南部から香美郡にかけて勢力を拡大した。永禄3年(1560年)5月、宿敵・本山氏の長浜城を攻略し、本山茂辰の奪還を撃退。土佐統一への道筋をつけた直後の同年6月15日、57歳で病没した。跡を継いだ嫡男・元親が、父の築いた基盤の上に四国統一という悲願を成し遂げることになる。
人物像
6歳で父を失い流浪の身となった逆境から一族を再興させた不屈の意志の持ち主。謀略と実力を織り交ぜた周到な戦略眼で、じわじわと勢力を拡大していく着実な統治者であった。息子・元親の武勇伝の陰に隠れがちだが、四国統一の礎は国親の代に築かれたと評価される。
歴史的意義
国親が攻略した楠目城・下田城などの跡地は現在、香美市・南国市の史跡として保存されている。父・国親から子・元親へと受け継がれた長宗我部氏の土佐統一事業は、戦国期における下克上・国人領主の典型例として今も高知県内で語り継がれている。
さらに深く
家系図
家系図
国親
家再興
元親
四国統一・姫若子
信親
嫡男・戸次川で戦死
盛親
四男・大坂の陣
─ 完 ─
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