永正元年(1504年)、土佐国の国人領主・長宗我部兼序の嫡男として生まれた。幼名は千雄丸。永正6年(1509年)、父・兼序が本山茂宗らに攻められて岡豊城で敗死すると、6歳の国親は家臣に守られて幡多荘中村へ逃れ、土佐一条氏の庇護を受けた。永正15年(1518年)、一条房家の仲介により旧領の江村・廿枝郷を回復し、岡豊城主として長宗我部家を再興した。以後、細川高国から「国」の偏諱を受けて国親と名乗り、周辺の国人領主を次々と攻略。天文16年(1547年)以降、大津城の天竺孫十郎、下田城の下田駿河守、楠目城の山田元義らを謀略や実力で次々に討ち、長岡郡南部から香美郡にかけて勢力を拡大した。永禄3年(1560年)5月、宿敵・本山氏の長浜城を攻略し、本山茂辰の奪還を撃退。土佐統一への道筋をつけた直後の同年6月15日、57歳で病没した。跡を継いだ嫡男・元親が、父の築いた基盤の上に四国統一という悲願を成し遂げることになる。