4度目の自殺——玉川上水入水(1948年6月13日)
1948年6月13日深夜、太宰は愛人・山崎富栄(当時28歳、美容師)と共に三鷹の自宅近くの玉川上水に身を投げた。二人は赤い紐で互いの身体を結んでおり、心中の意志が明確であった。6月19日(太宰の39歳の誕生日)、投身推定地から約1km下流の玉川上水に架かる新橋付近で二人の遺体が発見された。遺書は複数残され、妻・美知子と子供たちへの詫び、『人間失格』の原稿完成への言及があった。死因は心中とも、富栄による無理心中とも諸説あるが真相は藪の中。葬儀は三鷹の自宅で行われ、多数の文壇関係者・読者ファンが押し寄せた。『人間失格』は『展望』6月号から連載開始、太宰の死により時代の象徴的作品となった。太宰の墓は三鷹市の禅林寺にあり、森鴎外の墓の隣に位置する(生前から太宰は森鴎外を慕っていた)。6月19日は「桜桃忌」として毎年追悼行事が行われ、太宰文学の永続性を示している。
1935年8月、第1回芥川賞(対象:1935年上半期作品)が設定されると、太宰は短編『逆行』で候補となるも石川達三の『蒼氓』に敗れ次席。太宰は選考委員・川端康成に「大作家になる」と訴える執念の手紙を送った。川端の「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾み」という選評に激しく反発、「刺す。大いに刺す」と書簡で脅すほどに激怒。1936年の第3回芥川賞でも候補となるも無冠、以後1937年までに太宰の芥川賞への執着は病的なものとなった。この執着は『人間失格』の中でも言及されている。太宰は生涯芥川賞を得られなかったが、没後、その名誉は『人間失格』『斜陽』『走れメロス』等の作品群で芥川賞以上に不朽のものとなった。現在の「芥川賞」は人気・話題性を増し、太宰の時代から90年以上経ってなお日本文学界最高の新人賞として機能している。