1200年、内大臣・久我通親の子とされる(異説あり)。幼くして両親を失い、13歳で比叡山に入って天台教学を学んだが、「本来本法性、天然自性身」という教義に「なぜ諸仏は成道を求めて修行するのか」という疑問を解決できなかった。建仁寺に下り、栄西の弟子・明全に師事した。1223年に明全と渡宋し、天童山景徳寺の如浄禅師のもとで只管打坐の修行に励み、「身心脱落(しんじんだつらく)」の悟りを開いて如浄の印可を受けた。1227年に帰国後、「只管打坐(ただひたすら坐禅に打ち込む)」を真髄とする曹洞禅を日本に伝えた。京都・宇治に興聖寺を開き(1233年)、次いで鎌倉幕府の招きにより1247年一度下向したが権力との結託を嫌って辞し、越前(現・福井県)に移って1244年に永平寺を建立した。七十五巻からなる主著『正法眼蔵』は日本哲学の最高傑作とも称される深遠な思想書。1253年に54歳で入寂した。