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PERSON
道元
道元
曹洞宗開祖・只管打坐
1200-1253 · 享年 53歳
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生涯
1200年、内大臣・久我通親の子とされる(異説あり)。幼くして両親を失い、13歳で比叡山に入って天台教学を学んだが、「本来本法性、天然自性身」という教義に「なぜ諸仏は成道を求めて修行するのか」という疑問を解決できなかった。建仁寺に下り、栄西の弟子・明全に師事した。1223年に明全と渡宋し、天童山景徳寺の如浄禅師のもとで只管打坐の修行に励み、「身心脱落(しんじんだつらく)」の悟りを開いて如浄の印可を受けた。1227年に帰国後、「只管打坐(ただひたすら坐禅に打ち込む)」を真髄とする曹洞禅を日本に伝えた。京都・宇治に興聖寺を開き(1233年)、次いで鎌倉幕府の招きにより1247年一度下向したが権力との結託を嫌って辞し、越前(現・福井県)に移って1244年に永平寺を建立した。七十五巻からなる主著『正法眼蔵』は日本哲学の最高傑作とも称される深遠な思想書。1253年に54歳で入寂した。
人物像
妥協を許さぬ求道者。権力や名声を求めず、ひたすら坐禅と修行の道を追求した。論理的で緻密な思想家であり、哲学的深度は日本仏教随一。
歴史的意義
曹洞宗は日本最大の禅宗派となり、永平寺は今も修行道場として機能している。『正法眼蔵』は日本哲学の最高傑作とされ、西田幾多郎ら近代哲学者にも影響を与えた。
逸話・エピソード
「身心脱落」——宋の師・如浄のもとで得た悟り
道元は1223年に渡宋し、天童山の如浄禅師のもとで厳しい修行を重ねた。ある夜、隣の修行僧が居眠りをしていた際、如浄が「坐禅とは身心脱落なり」と一喝した。その言葉を聞いた道元は深い悟りを得たという。「身心脱落」(からだも心も一切の執着を脱ぎ落とすこと)はその後の道元の思想の核心となった。
鎌倉幕府の招きを断って越前の山奥に永平寺を建立
道元の名声を聞いた鎌倉幕府は1247年に道元を招いた。道元は招きに応じて一度鎌倉に下向したが、権力に近づくことを嫌い、幕府の要人たちの要請を断って京都にも戻らず越前(現・福井県)の山奥に引き込んだ。1244年に建立した永平寺を純粋な修行道場として守り続けることを選んだ。「権力の庇護を受けず、ただ修行のみ」という道元の姿勢は曹洞宗の精神的基盤となった。
関連する歴史的事件
1200
鎌倉文化
12〜13世紀、武士政権の成立とともに展開した力強く写実的な文化。公家文化(伝統)と武家文化(新興)、宋・元からの新しい影響が融合した。彫刻では運慶・快慶ら慶派が東大寺南大門金剛力士像(1203年)、興福寺北円堂無著・世親像などの傑作を残した。建築では東大寺南大門の大仏様、円覚寺舎利殿の禅宗様が伝来。鎌倉新仏教(法然・浄土宗、親鸞・浄土真宗、一遍・時宗、栄西・臨済宗、道元・曹洞宗、日蓮・日蓮宗)が庶民に広まった。文学では『平家物語』『方丈記』(鴨長明)『徒然草』(吉田兼好)の三大随筆、勅撰和歌集『新古今和歌集』(1205年・藤原定家ら撰)が成立。
ゆかりの地 — 2
延暦寺横川
滋賀県
道元(1200-1253年)は13歳で比叡山に登り天台僧として出家した。横川を含む比叡山での修行が後の曹洞宗の開創へとつながる思想的基礎を形成した。「日本仏教の母なる谷」横川は鎌倉新仏教の祖師たちの修行の地として歴史的意義を持つ。
正法寺
岩手県
正法寺は曹洞宗開祖・道元から数えて六代目の禅僧・無底良韶により1348年に開かれ、東北初の曹洞宗寺院となった。道元が宋から伝え永平寺で確立した只管打坐の禅は、瑩山紹瑾・峨山韶碩を経て無底良韶に伝わり、当寺の開創を通じて東北一帯の曹洞宗布教の出発点となった。1350年に「出羽・奥州の第三本山」として永平寺・總持寺に次ぐ格式を認められたのは、道元の法系の正統な継承の証である。
─ 完 ─
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