サトウは来日後わずか数年で、当時の外国人としては異例の日本語能力を身につけた。公文書の古文書体すら読みこなし、大名や幕府高官と通訳なしで直接交渉できるレベルに達した。この語学力により、他の西洋外交官が得られない情報を入手し、パークス公使の対日政策に決定的な影響を与えた。サトウなくしてイギリスの幕末外交は成立しなかったとさえ言われている。
1866年、サトウは匿名で「英国策論」を発表した。この論文は、将軍による一元的統治ではなく、天皇を中心に諸大名が連合する政体を提唱するものであった。日本語で書かれたこの文書は薩摩・長州など倒幕派の志士たちに広く読まれ、倒幕運動の正当性を外国の視点から裏付けるものとして大きな影響を与えた。サトウ個人の見解として発表されたが、事実上イギリス政府の意向を反映していたとも見られている。
アーネスト・サトウの姓「Satow」はスラブ系(ドイツ系とも)の姓であり、日本の「佐藤」とは無関係である。しかしこの偶然の一致は日本での活動に有利に働いたとも言われる。日本人にとって親しみやすい名前であったことが、交渉や情報収集を円滑にした面があったかもしれない。サトウ自身もこの偶然を楽しんでいたとされ、日本への深い愛着と相まって、まるで運命的な巡り合わせであったかのように語られることがある。