966年、藤原兼家の五男として生まれ、当初は権力継承の本命ではなかった。しかし長兄・道隆、次兄・道兼が相次いで早世し、弟・道長が権力の座に就いた。996年に左大臣となり、以後20年以上にわたって摂関政治の中枢に君臨した。正式な関白になることなく、「内覧」として太政官文書を全て事前に確認する実質的な最高権力を握った。権力強化の要は娘たちの入内で、長女・彰子を一条天皇の中宮、次女・妍子を三条天皇の中宮、三女・威子を後一条天皇の中宮(1018年)に立て、三代にわたる外戚として絶対的地位を確立した。1018年10月16日の威子の立后の宴で「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ和歌は、空前絶後の栄華の象徴として後世に伝わる。晩年は糖尿病と伝わる病に侵され、仏教に深く帰依して法成寺を建立した。1027年に62歳で没した。紫式部は道長の後援を受けながら源氏物語を執筆したとされる。