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藤原定家
藤原定家
新古今・百人一首の撰者
1162-1241 · 享年 79歳
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驚
へぇ、と思う三話
其 一
小倉山荘で選んだ百首——百人一首誕生の瞬間
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定家は晩年、京都・嵯峨の小倉山荘に隠棲した。息子・為家の新居の障子(襖)を飾るために古今の歌人から各一首ずつ選んで色紙に書き記したのが「小倉百人一首」の起源とされる。障子の色紙という実用から生まれたこの百首は、後世に「かるた」となって日本中に広まり、今も正月の風物詩として親しまれている。
其 二
後鳥羽上皇と歌論の激突——選歌を巡る師弟の葛藤
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後鳥羽上皇は新古今和歌集の編纂に自ら深く関与し、定家の選んだ歌を後から削除・変更することもあった。定家は上皇から「歌道において朕に従え」と迫られたが、自身の美学「有心(うしん)」を曲げることを拒んだ。日記『明月記』は「公事は天子に従う、しかし歌道は然らず」という決意を記している。
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深
さらに深く
生
生涯をくわしく
生い立ちから最期まで
1162年、「幽玄」の美学を確立した歌人・藤原俊成の子として生まれた。父の手ほどきを受けながら幼少より和歌の英才教育を受け、若くして御子左家の後継者として期待された。後鳥羽上皇の命により藤原良経・寂蓮らと共に『新古今和歌集』(1205年成立)の選者となり、「有心(うしん)」の美学に基づく幽玄・象徴的な歌風を追求した。しかし上皇とは歌論をめぐって激しく対立し、上皇は定家の選んだ歌を後に勝手に削除するなど確執が続いた。承久の乱(1221年)後は上皇方に与していたとして罰せられることも懸念されたが、処罰は免れた。晩年は京都・嵯峨の小倉山荘に隠棲し、そこで藤原為家の新居の屏風のために百首の秀歌を選んだ『小倉百人一首』を撰した。これが後世に「かるた」として広まり日本文化の代名詞となった。50年以上書き続けた日記『明月記』は当時の政治・天文・芸能の記録として今も第一級史料。1241年に80歳で没。
人
人物像
完璧主義的な歌人で、「有心」の美学を追求した。頑固で妥協を許さぬ芸術家気質。後鳥羽上皇にも屈せず自身の歌論を貫いた。
義
歴史的意義
日本和歌史上最大の歌人の一人。『新古今和歌集』と『小倉百人一首』は日本文化の根幹をなし、百人一首は今も正月の風物詩として親しまれている。
系
家系図
親
父
1114-1204
藤原俊成
『千載和歌集』の選者。歌道の大家。
本
本人
藤原定家
1162-1241
子
長男
1198-1275
藤原為家
歌人。御子左家を継承。
記
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正
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歌
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─ 完 ─
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