1162年、「幽玄」の美学を確立した歌人・藤原俊成の子として生まれた。父の手ほどきを受けながら幼少より和歌の英才教育を受け、若くして御子左家の後継者として期待された。後鳥羽上皇の命により藤原良経・寂蓮らと共に『新古今和歌集』(1205年成立)の選者となり、「有心(うしん)」の美学に基づく幽玄・象徴的な歌風を追求した。しかし上皇とは歌論をめぐって激しく対立し、上皇は定家の選んだ歌を後に勝手に削除するなど確執が続いた。承久の乱(1221年)後は上皇方に与していたとして罰せられることも懸念されたが、処罰は免れた。晩年は京都・嵯峨の小倉山荘に隠棲し、そこで藤原為家の新居の屏風のために百首の秀歌を選んだ『小倉百人一首』を撰した。これが後世に「かるた」として広まり日本文化の代名詞となった。50年以上書き続けた日記『明月記』は当時の政治・天文・芸能の記録として今も第一級史料。1241年に80歳で没。