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後醍醐天皇
像
後醍醐天皇
建武の新政・倒幕の旗手
1288-1339 · 享年 51歳
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驚
へぇ、と思う三話
其 一
隠岐からの脱出
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鎌倉幕府に反旗を翻して隠岐に流罪となるが、脱出に成功。楠木正成・新田義貞らの支援で鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を開始した。
其 二
建武の新政
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鎌倉幕府を滅ぼし、天皇親政による「建武の新政」を開始。しかし恩賞の不公平から武士の不満が爆発し、わずか3年で足利尊氏に敗れて吉野に逃れ、南朝を開いた。
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深
さらに深く
生
生涯をくわしく
生い立ちから最期まで
1288年、後宇多天皇の皇子として生まれた。即位後から院政を廃止して天皇親政の復活を強く志し、幕府打倒計画を秘密裏に進めた。1324年の正中の変では事前に露見して未遂に終わり、1331年の元弘の変でも失敗して隠岐島に流された。しかし翌1332年に島を脱出し、楠木正成・名和長年らが各地で挙兵した。さらに足利高氏(後の尊氏)・新田義貞が幕府を見限って後醍醐方に参じると、1333年に六波羅探題と鎌倉が相次いで陥落し、鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇は建武の新政(1334年〜)を開始し、公家優先・武士軽視の政策を推し進めた。しかし多くの武士が旧来の所領安堵を求める中で政策への不満が爆発し、足利尊氏が1335年に離反した。後醍醐は吉野(現・奈良県吉野町)に逃れ南朝を開いて北朝と対立する南北朝時代が幕を開けた。1339年に崩御。「朕の志を継げ」との遺言を残し、晩年まで北朝との抗争を諦めなかった。享年52。
人
人物像
不屈の意志で天皇親政の理想を追い続けた。二度の流罪にも屈せず脱出する行動力を持つ一方、武士の心情を理解できず建武の新政を失敗に導いた。
義
歴史的意義
鎌倉幕府滅亡と南北朝時代の幕開けを引き起こした天皇。建武の新政は短命に終わったが、その理念は明治維新の王政復古に影響を与えた。
系
家系図
親
父
1267-1324
後宇多天皇
大覚寺統の天皇。
本
本人
後醍醐天皇
1288-1339
事
関連する歴史的事件
1324
正中の変
正中元年(1324年)9月、後醍醐天皇が側近とともに企てた鎌倉幕府打倒の計画が事前に露見し、失敗に終わった事件。倒幕への第一次挑戦とされる。後醍醐天皇は即位以来、親政を志向し律令制の復興を目指していたが、幕府は両統迭立を強制し皇位継承にも介入していた。これに憤った天皇は日野資朝・日野俊基ら腹心と謀り、六波羅探題を襲撃して武家政権を打倒する計画を立てた。ところが土岐頼兼や多治見国長ら謀議に加わった武士の動きが六波羅に察知され、計画は一気に瓦解。土岐・多治見は討ち取られ、日野資朝は佐渡に配流された(翌年処刑)。後醍醐天皇自身は関与を否定して処分を免れたが、倒幕の決意はいっそう固まり、9年後の元弘の変(1331年)、さらには1333年の鎌倉幕府滅亡・建武の新政へと繋がっていく。武家政権と朝廷の全面対決の序章となった事件である。
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記
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─ 完 ─
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