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PERSON
後藤又兵衛
後藤又兵衛
黒田の猛将
1560-1615 · 享年 55歳
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生涯
1560年(永禄3年)、播磨国に後藤基国の子として生まれた。本名は基次。黒田孝高(官兵衛)に養育され、黒田家に仕えて数々の戦功を挙げた。朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでも活躍し、黒田二十四騎・黒田八虎の一人に数えられる猛将であった。しかし主君・黒田長政との不和から1606年頃に黒田家を離れ、浪人となった。長政が他家への仕官を妨害したため、各地を転々とした。1614年の大坂冬の陣では豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城し、大坂五人衆の一人として活躍。1615年(元和元年)5月6日、大坂夏の陣の道明寺の戦いで約2,800の兵を率い、伊達政宗・松平忠明らの大軍を相手に約8時間奮戦したが、鉄砲に撃たれて壮絶な戦死を遂げた。享年56。
人物像
豪胆にして一本気。武勇に秀でるだけでなく知略にも長けた名将。自尊心が強く、主君との折り合いが悪くとも信念を曲げない気骨の持ち主。
歴史的意義
大坂五人衆の一人として道明寺の戦いでの壮絶な最期は後世に語り継がれた。浪人から大坂城の柱石となった生き様は、武士の意地を貫いた男として講談や物語で広く親しまれている。
逸話・エピソード
道明寺の戦い——孤軍奮闘の8時間
1615年5月6日、大坂夏の陣で又兵衛は約2,800の兵を率いて道明寺方面の先鋒を務めた。本来は真田幸村や毛利勝永との連携作戦であったが、濃霧のために後続部隊の到着が遅れ、又兵衛は単独で伊達政宗ら東軍の大軍と対峙することになった。約8時間にわたる激戦の末、伊達軍の片倉重綱率いる鉄砲隊に胸を撃たれて落馬。「武士の死に場所はここぞ」と言い残して壮絶な最期を遂げたと伝わる。又兵衛の奮戦が東軍の進撃を遅らせたことで、後続の真田隊が態勢を整える時間を稼いだ。
─ 完 ─
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