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PERSON
後藤新平
後藤新平
医師出身の都市計画家・拓殖大学第3代学長
1857-1929 · 享年 72歳
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生涯
1857年、陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市)の仙台藩留守氏家臣の家に生まれた。須賀川医学校卒業後、名古屋で医師となり内務省衛生局に入局。1892年、衛生局長に就任し近代日本の公衆衛生制度を確立。1898年、児玉源太郎の推挙で台湾総督府民政長官に就任、糖業振興・土地調査・衛生改善など台湾近代化を主導。1906年、南満州鉄道(満鉄)初代総裁として鉄道・炭鉱・製鉄の一体経営モデルを構築。逓信大臣・内務大臣を歴任し、1920年、東京市長に就任。大胆な都市計画を提唱したが議会の反対で挫折。1923年の関東大震災直後、内務大臣兼帝都復興院総裁として「帝都復興計画」を立案、現在の東京の骨格となる街路・公園・区画整理の基礎を築いた。1919年から1929年まで拓殖大学第3代学長。「自治三訣」(人のお世話にならぬ・人のお世話をする・報を求めぬ)を説いた。1929年、岡山で脳溢血により死去。享年71。
人物像
「大風呂敷」と渾名されるほど構想の大きな政治家で、反対を恐れず100年先を見据えた計画を打ち出した。医師出身らしく「国家を一つの身体として診る」視点を持ち、公衆衛生・都市計画・植民地経営に一貫する思想があった。金と地位に淡泊で、私財を遺さず「金を残すは下なり、事業を残すは中なり、人を残すは上なり」の言葉を遺した。
歴史的意義
後藤の帝都復興計画(1923-24年)は議会で縮小されたが、幹線道路・震災復興橋・小学校用地・大公園(隅田公園・浜町公園等)は現在も東京都民の生活基盤である。台湾・満洲での近代化事業は、植民地主義的側面を含みつつも、土地調査やインフラ整備で戦後にまで残る遺産を築いた。拓殖大学は彼の代に大学昇格(1922年)。ボーイスカウト日本連盟初代総長、NHK前身放送会初代総裁としても日本近代文化に足跡を残した。
逸話・エピソード
1923年——震災の中から現代東京を構想する
1923年9月1日、関東大震災が発生。東京は焼失し死者10万人を超えた。内務大臣として帝都復興院総裁を兼任した後藤は、「災害こそ都市再生の好機」として4日間で壮大な復興計画の骨格を書き上げた。100m幅の大通り、緑地帯、公園、耐震耐火の区画整理——。予算13億円の計画は議会で4.7億円に縮小されたが、昭和通・明治通・蔵前橋通・隅田公園など、実現した部分は現在の東京を形作る骨格となった。
台湾統治で見せた近代化の手腕
1898年、台湾総督府民政長官に就任した後藤は、医師としての経験を活かし、まずマラリア撲滅・ペスト対策の衛生改革に着手。次いで土地調査事業(1898-1905)で台湾全土を測量し、近代的土地所有制度を確立。製糖業を主産業として育成し、縦貫鉄道を建設した。「生物学的統治」と彼が呼んだ漸進的近代化方針は、武力鎮圧型植民地統治とは異なる新しいモデルを示した。台湾では今も、東京より先に西洋式トイレや上下水道が普及した近代化の始祖として記憶されている。
─ 完 ─
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