後鳥羽上皇は和歌・蹴鞠・管弦・書など多方面に卓越した才能を持っただけでなく、刀剣の鍛冶にも強い関心を持ち、諸国から名匠を集めて自らも刀を鍛えた。上皇が鍛えた刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、刀身に菊紋が刻まれた。承久の乱で隠岐に流された後も刀を鍛え続けたとされ、文武両道の才能が宮廷の慣例を超えていた。
1221年、後鳥羽上皇は執権・北条義時を討伐する宣旨を発したが、北条政子が鎌倉の御家人に向けて「頼朝公の御恩を忘れるな」と演説し、御家人は結束した。幕府は東海・東山・北陸の三方向から大軍を送り込み、朝廷軍はわずか一ヶ月で壊滅した。上皇は隠岐島に19年間流され、朝廷は二度と幕府に対抗できなくなった。
1221年、北条義時追討の院宣を発して挙兵したが、北条政子の演説で結束した幕府軍に大敗。隠岐に配流され、19年間の流謫の末に崩御した。
勅撰和歌集「新古今和歌集」の編纂を命じた。幽玄・余情の美を追求した歌風は日本文学史上の最高峰の一つとされる。刀剣の名手としても知られた多芸の帝王。