1804年10月13日、青洲は60歳の乳癌患者・藍屋勘を春林軒に迎え、通仙散を服用させて全身麻酔をかけた。数時間後、勘は深い眠りに落ち、青洲は落ち着いて乳房を切除した。手術は成功し、勘は痛みを感じることなく目覚めた。西洋のモートンがエーテル麻酔で歯科手術を行うのは42年後の1846年である。鎖国下の日本で、一地方の医師が達成したこの快挙は、世界医学史の金字塔となった。
動物実験では安全性が確認できず、青洲は家族の犠牲を必要とした。母・於継と妻・加恵は「どうか私を実験台に」と競うように志願した。やがて母は体調を崩し命を落とし、妻は失明した。それでも二人は青洲の研究を支え続けた。女性の犠牲の上に成立した医学的偉業という構図は、後の小説『華岡青洲の妻』で深く描かれ、日本近代医学成立の光と影を象徴する物語となった。
青洲は成功後、故郷に「春林軒」という医学塾を開き、全国から弟子を集めた。生涯で1000人以上の弟子を育て、華岡流外科は全国に広まった。鎖国下で西洋医学の情報が限られる中、青洲の塾は実践的外科技術を学べる貴重な場となった。弟子たちは全国で医療を行い、間接的に数えきれぬ患者を救った。青洲の遺産は「通仙散」という一つの処方だけでなく、千本の分身たる弟子として日本全土に広がったのである。