陸奥国岩手郡盛岡(現・岩手県盛岡市)の南部藩士の家に生まれる。明治維新後、薩長藩閥が政権を独占する中、東北出身者として苦労しながら外務省・内務省などで官吏を務めた。伊藤博文の支持のもと立憲政友会の組織強化に尽力し、1918年に第26代内閣総理大臣に就任した。爵位を持たない「平民宰相」として庶民に親しまれた。党人出身者として初めて首相に就任し、政党政治の定着に大きく貢献した。「積極政策」を掲げ、鉄道・道路の整備、高等教育の拡充など内政の充実を図った。一方で普通選挙には消極的で、小選挙区制を維持して政友会の利益を守った。シベリア出兵(1918年)や米騒動への対応、朝鮮の三・一独立運動への対応など、難しい問題にも直面した。1921年11月4日、東京駅でホームを歩いていたところを山手線の駅員・中岡艮一に刺殺された。享年65歳。日本の民主主義発展史における重要人物であり、「憲政の神様」尾崎行雄とともに日本政党政治の礎を築いた。