武蔵国の名族・畠山重忠の長男として生まれた。父・重忠は「坂東武者の鑑」と称えられた鎌倉幕府随一の清廉の武将であり、重保もその父の薫陶を受けて育った。1205年、北条時政とその後妻・牧の方が、娘婿・平賀朝雅と仲が悪かった重保を陥れようと謀略を図った。牧の方は重保が謀反を企てていると時政に讒言し、重保は鎌倉の由比ヶ浜に呼び出されて三浦義村の手で斬殺された。その報せを受けた父・重忠は武蔵国から弁明のために南下する途中、二俣川(現・神奈川県横浜市)で北条軍の大軍に包囲され、主従わずか136騎で奮戦の末に討ち死にした(畠山重忠の乱)。この事件は冤罪であったことが事後に明らかとなり、政子・義時らは激怒した。主謀の牧の方は流罪となり、時政は出家隠居を余儀なくされた。畠山父子の悲劇は、北条時政の失脚と義時・政子による新体制樹立の直接的な契機となった。