1583年、京都の浪人の家に生まれた。幼名・菊松丸、名・信勝、号・羅山。建仁寺で学ぶも禅僧になることは拒み、独学で儒学・史学・文学の広範な知識を身につけた。1604年、朱子学者・藤原惺窩に入門、その推薦で1607年に徳川家康の侍講となる。以後、家康・秀忠・家光・家綱の四代将軍に仕え、幕府の文書作成・外交文書の起草・典礼制定を一手に担った。1630年、将軍家光より上野忍岡に土地を与えられ「弘文院」を開設、1632年には尾張徳川家から寄進された聖堂(のちの湯島聖堂)を移築、先聖殿を設け朱子学を中核とする教育機関を創始した。これが後の昌平坂学問所(幕府公式学問所)の原型となる。『本朝通鑑』などの史書編纂、禁中並公家諸法度の起草などにも関わり、幕府初期の文治主義を支えた。林家は代々「大学頭(だいがくのかみ)」として幕末まで学問を統率。1657年、江戸大火による自邸焼失のショックで死去。享年75。