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PERSON
林羅山
林羅山
徳川幕府御用儒学者・朱子学を官学に
1583-1657 · 享年 74歳
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生涯
1583年、京都の浪人の家に生まれた。幼名・菊松丸、名・信勝、号・羅山。建仁寺で学ぶも禅僧になることは拒み、独学で儒学・史学・文学の広範な知識を身につけた。1604年、朱子学者・藤原惺窩に入門、その推薦で1607年に徳川家康の侍講となる。以後、家康・秀忠・家光・家綱の四代将軍に仕え、幕府の文書作成・外交文書の起草・典礼制定を一手に担った。1630年、将軍家光より上野忍岡に土地を与えられ「弘文院」を開設、1632年には尾張徳川家から寄進された聖堂(のちの湯島聖堂)を移築、先聖殿を設け朱子学を中核とする教育機関を創始した。これが後の昌平坂学問所(幕府公式学問所)の原型となる。『本朝通鑑』などの史書編纂、禁中並公家諸法度の起草などにも関わり、幕府初期の文治主義を支えた。林家は代々「大学頭(だいがくのかみ)」として幕末まで学問を統率。1657年、江戸大火による自邸焼失のショックで死去。享年75。
人物像
博識にして文筆に長け、記憶力と弁舌で家康を驚嘆させた。禅僧になることを拒んだ合理主義者であり、儒教を体系的国家哲学として提示できる唯一の学者として幕府に重用された。政治的には保守的で朱子学以外の学説を排除しようとする排他性も示し、後の朱子学独尊の礎を築いた。一方で文書・儀礼の起草にあたっては、実務家としての精緻さも発揮した。
歴史的意義
林家は11代にわたり幕府の文教を統率し、昌平坂学問所は江戸時代の学問の最高峰となった。朱子学の官学化は「士農工商」の身分制度を正当化する理論的支柱となり、江戸社会の安定に寄与した。儒学・漢学の研究伝統は、明治の近代学問制度にも東京大学文学部などの形で継承された。一方、朱子学独尊による他学派排除は、後の陽明学・古学・国学・蘭学などの在野学問の発達を促す反作用も生み、日本思想史に複雑な遺産を残した。
逸話・エピソード
1607年——若き羅山、家康に謁見
1607年、24歳の羅山は藤原惺窩の推薦で徳川家康に謁見した。家康は朝鮮通信使から問われる質問に答えさせるなど様々な試験を行ったが、羅山は漢籍を自在に引用し儀礼・法度についても即答した。家康は「この若者は千年に一人の学才である」と大いに驚嘆、即座に侍講として召し抱えた。以後、家康の顧問として外交文書(明への国書、朝鮮通信使応対)・宗教政策(排耶蘇論)にも関与し、徳川政権の文治の礎を築いた。
1630年——忍岡の先聖殿と昌平坂学問所の源流
1630年、3代将軍・家光は羅山に上野忍岡の地を与え、そこに「弘文院」を開設。1632年、尾張藩より孔子廟の聖像が寄進されると、羅山はこれを安置する「先聖殿」を建立。これが日本最初の体系的儒学教育機関となった。1690年には5代将軍・綱吉により湯島に移転、「湯島聖堂」と改称。その傍らに設けられた学問所は1797年に幕府直轄の「昌平坂学問所」となり、江戸時代の最高教育機関として多くの人材を輩出した。林羅山の忍岡開設は、後の国立大学制度の先駆けとも評価される。
─ 完 ─
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