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PERSON
徳川秀忠
徳川秀忠
律儀者の将軍
1579-1632 · 享年 53歳
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生涯
1579年(天正7年)、徳川家康の三男として遠江国に生まれた。母は側室の西郷局。1600年の関ヶ原の戦いでは中山道を進軍中、真田昌幸の上田城攻めに手間取り、本戦に間に合わないという大失態を犯した。家康の激怒を受けたが、1605年に第2代征夷大将軍に任命された。将軍としては武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定し、大名統制と朝廷統制を確立。外様大名の改易を積極的に行い、幕藩体制の基盤を固めた。1614-15年の大坂の陣では大軍を率いて参戦し、豊臣家を滅亡させた。1623年に将軍職を家光に譲り大御所となったが、実権は握り続けた。1632年(寛永9年)1月24日、54歳で没した。
人物像
生真面目で几帳面な性格。父・家康のような天才的軍事力は持たなかったが、法整備と政治手腕に優れ、幕府の基盤を磐石にした。恐妻家として知られ、正室・江との関係でも有名。
歴史的意義
関ヶ原への遅参で「凡将」と評されがちだが、武家諸法度の制定や大名統制など、260年続く幕藩体制の基盤を築いた功績は極めて大きい。父・家康が始めた天下泰平を制度として定着させた実務家であった。
逸話・エピソード
関ヶ原への大遅参——真田に足止めされた将軍
1600年9月、秀忠は約3万8千の大軍を率いて中山道を西進し、途中の信濃上田城に立ち寄った。真田昌幸はわずかな兵で籠城し、巧みな戦術で秀忠軍を翻弄。秀忠は上田城攻略に固執するあまり、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかった。家康は激怒し、秀忠との面会を数日間拒否したとされる。この「世紀の大遅参」は秀忠の一生の汚点となったが、皮肉にもこの経験が秀忠に「戦よりも制度で治める」という政治哲学を植え付けたとも言われる。
─ 完 ─
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