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PERSON
平塚らいてう
平塚らいてう
青鞜社創立・「元始、女性は太陽であった」・新婦人協会
1886-1971 · 享年 85歳
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生涯
1886年(明治19年)2月10日、東京・麹町に会計検査院官僚・平塚定二郎の三女として生まれた。本名・奥村明(はる)。筆名「らいてう(雷鳥)」は高山の鳥の名に由来。1903年日本女子大学家政科入学、1906年卒業。在学中から哲学・文学に傾倒、卒業後も「閨秀文学会」で小説を学んだ。1908年、小説家・森田草平と那須塩原で心中未遂事件(「煤煙事件」)を起こし世間を騒がせた。1911年(明治44年)9月、25歳で日本最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊、「青鞜社」を設立(社員は保持研子・中野初子・木内錠子・物集和子・らいてう)。創刊号の発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」は日本の女権宣言として歴史に刻まれた。『青鞜』は新しい女の思想・恋愛・性・堕胎・売春等の問題を論じ、社会から激しい非難を浴びた。1914年、5歳年下の画家・奥村博史と法律上結婚せず「事実婚」を選択、長女・曙生を出産。1920年、市川房枝・奥むめおと「新婦人協会」を結成、治安警察法第5条(女性の政治集会・政社加入禁止)改正運動を展開、1922年改正に成功。戦時中は一時活動休止。戦後は「婦人平和協会」「日本婦人団体連合会」「国際民主婦人連盟」等で平和・婦人運動を指導。1971年(昭和46年)5月24日、東京で胆嚢ガンのため85歳で没。
人物像
天才肌にして神秘主義的傾向を持つ女性解放思想家。哲学・禅・キリスト教を学び、若い頃から「自我」と「生命」の根源を問い続けた。大胆な「心中事件」「事実婚」など、当時の社会規範を真っ向から破る行動で注目を集めたが、理論・実践の両面で日本女性運動の基盤を築いた。温和な外見の奥に燃える情熱と確固たる信念を秘めた、近代日本最も重要な女性の一人。
歴史的意義
平塚らいてうは日本フェミニズムの創始者として不朽の地位を占める。『青鞜』創刊号の「元始、女性は太陽であった」は現代も女性運動のスローガンとして生き続ける。新婦人協会の活動は治安警察法第5条改正を実現し、大正デモクラシーの一翼を担った。戦後の平和・婦人運動でも中心的存在として活動を続け、市川房枝・田中寿美子らの後継者を育てた。東京都渋谷区の平塚らいてう旧宅跡には顕彰碑が建ち、日本女子大学には「平塚らいてう記念館」がある(長野県上田市塩田平)。ノーベル平和賞候補にも推薦された。
逸話・エピソード
1911年9月——『青鞜』創刊「元始、女性は太陽であった」
1911年9月1日、25歳の平塚らいてうは日本女子大学卒業の先輩・生田長江の激励を受けて、女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊した。誌名「青鞜」は18世紀英国の知的女性サークル「Blue Stocking」の訳。創刊号巻頭に寄せた「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。私たちは、隠されてしまった私たちの太陽を今や取り戻さねばならぬ」という文は日本の女権宣言として歴史に刻まれた。『青鞜』は5年間続き、性・恋愛・堕胎等タブーとされた問題を大胆に論じ、「新しい女」の代名詞となった。
1920年——新婦人協会、治安警察法第5条改正運動
1920年3月、平塚らいてうは市川房枝・奥むめおと「新婦人協会」を結成。当時、治安警察法第5条は「女子・未成年者・警察官等の政治集会への参加・政社加入」を禁じていた。新婦人協会は請願署名運動・街頭演説・帝国議会への働きかけを展開、1922年3月ついに第5条2項(集会参加禁止)の改正に成功した(政社加入禁止は存続)。これは日本女性が初めて獲得した政治的権利であり、1925年の普通選挙法(男子普選)を経て、1945年の女性参政権実現への重要な布石となった。らいてうはこの運動で市川房枝・奥むめおと共に「大正三婦人」と呼ばれた。
─ 完 ─
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