1782年、豊後国日田(現・大分県日田市)の富商・博多屋の長男として生まれた。幼少より学問に秀でたが病弱のため家業を継がず学問に専念。福岡の亀井南冥・昭陽親子に学び、帰郷後、1805年(23歳)に「成章舎」を開く。1807年に「桂林園」、1817年には現在地に「咸宜園(かんぎえん)」を開設。「咸(ことごと)く宜(よろ)し」の名は『詩経』に由来し、身分・年齢・学歴を問わず誰でも学べる門戸開放主義を象徴する。「三奪の法」(入門時に出身・年齢・学歴を問わない)と「月旦評」(月次評価による等級制)を特徴とし、全国から集まった生徒は80年間で延べ4800人余。東は陸奥、西は薩摩まで日本全国に門下生を輩出した。高野長英・大村益次郎・長三洲らを門下に持つ。1856年、75歳で没。「遠思(えんし)」を号として詩文にも優れ、詩集『遠思楼詩鈔』を遺した。