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PERSON
広瀬淡窓
広瀬淡窓
咸宜園主宰・日本最大の私塾教育者
1782-1856 · 享年 74歳
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生涯
1782年、豊後国日田(現・大分県日田市)の富商・博多屋の長男として生まれた。幼少より学問に秀でたが病弱のため家業を継がず学問に専念。福岡の亀井南冥・昭陽親子に学び、帰郷後、1805年(23歳)に「成章舎」を開く。1807年に「桂林園」、1817年には現在地に「咸宜園(かんぎえん)」を開設。「咸(ことごと)く宜(よろ)し」の名は『詩経』に由来し、身分・年齢・学歴を問わず誰でも学べる門戸開放主義を象徴する。「三奪の法」(入門時に出身・年齢・学歴を問わない)と「月旦評」(月次評価による等級制)を特徴とし、全国から集まった生徒は80年間で延べ4800人余。東は陸奥、西は薩摩まで日本全国に門下生を輩出した。高野長英・大村益次郎・長三洲らを門下に持つ。1856年、75歳で没。「遠思(えんし)」を号として詩文にも優れ、詩集『遠思楼詩鈔』を遺した。
人物像
病弱にして温厚、礼儀作法に厳格な教育者。生徒一人一人の個性を見抜き、得意分野を伸ばす指導法を貫いた。厳格と温情を併せ持ち、「淡窓先生」と敬愛された。自らは出仕を拒み生涯を教育に捧げた謙虚な実践家。詩人としても優れ、生徒たちに漢詩の作法を熱心に教え、詩の応酬が塾の日常を彩った。
歴史的意義
咸宜園は1897年の閉塾まで80年間続き、総学生数4800人余は当時世界最大級の私立学校。高野長英・大村益次郎・長三洲・清浦奎吾(後の首相)・上野彦馬(写真家)など政治・軍事・学術の各方面に人材を輩出した。2015年には「近世日本の教育遺産群」としてユネスコ世界遺産候補(日本遺産)に認定された。現在も跡地に「咸宜園教育研究センター」があり、淡窓の教育思想は現代の生涯学習・多様性教育にも通じると再評価されている。
逸話・エピソード
三奪の法——身分・年齢・学歴を問わない
咸宜園最大の特徴は「三奪の法」であった。入門の際、出身(武士・町人・農民などの身分)・年齢・それまでの学歴を問わない。全員が同じ出発点からスタートし、月次の試験(月旦評)のみで等級が決まる。武士の子弟と百姓の子弟が同じ机に座り、18歳と50歳が同じ教室で学んだ。身分制度の江戸時代においてこの徹底した平等主義は革命的であり、近代日本の教育理念の先駆として現在も高く評価されている。
月旦評——日本最初の成績評価制度
淡窓は「月旦評」と呼ばれる月次の成績評価システムを導入。漢詩作成・経書解釈・書道・算術などの科目ごとに月一回試験を行い、全生徒を9級に格付け。月毎に順位を張り出し、成績により等級が上下した。出身・年齢を問わない三奪の法と組み合わせ、純粋に学力のみで評価される画期的な教育システムであった。このシステムは西洋の近代的評価制度を先取りしており、日本教育史上最も早い時期の客観的成績評価の例とされる。
─ 完 ─
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