1175年、北条時政の子として生まれた。母が時政の後妻であったため義時とは異母弟にあたる。幼少期から武芸に励み、蹴鞠の名手としても知られ公家文化にも通じた。源頼朝に仕えて鎌倉幕府の草創期を支え、頼朝死後も義時・政子のもとで幕政を補佐した。1221年の承久の乱では東海道方面軍の大将を務め、北陸道方面の義時の子・泰時と連携しながら大軍を率いて上洛し、宇治川の防衛線を突破して京都を占領した。乱の後、初代六波羅探題北方に就任して在京御家人の統率と朝廷監視にあたった。1225年に甥の泰時が三代執権に就任すると、幕府の権力構造を強化するために新設された連署(執権の補佐役)の初代に就任した。連署制度の創設は集団指導体制の整備として高く評価される。泰時と協力して1232年の御成敗式目の制定にも関与し、武家法の発展に貢献した。連署の職は以後も存続し、鎌倉幕府の集団指導体制の礎として機能した。1240年、享年66歳で没した。