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PERSON
本田宗一郎
本田宗一郎
夢と情熱でホンダを世界企業に育てた技術者社長
1906-1991 · 享年 85歳
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生涯
1906年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)の鍛冶屋・本田儀平の長男として生まれた。二俣尋常高等小学校卒業後の1922年、東京の自動車修理会社「アート商会」で丁稚奉公。1928年、22歳で故郷浜松にアート商会浜松支店を開業、独立した。1937年東海精機重工業を設立しピストンリング製造で成功。戦後1946年10月、浜松に本田技術研究所を設立、自転車補助エンジン「バタバタ」を製造。1948年9月、本田技研工業株式会社を設立。1949年には藤澤武夫と運命的な出会いを果たし、本田は技術・藤澤は経営と完全な役割分担で協働、1950年代に二輪車市場で急成長。1958年「スーパーカブ」発売、世界累計販売台数1億台を超える大ヒット。1961年マン島TTレースで日本メーカー初優勝、1964年フォーミュラ1(F1)参戦、1965年メキシコGPで初優勝。1963年には四輪車事業に進出、スポーツカー「S500」を発売。1972年、世界最初の低公害エンジン「CVCC」を開発、米国マスキー法規制を世界で初めてクリア。1973年、66歳で藤澤と共に社長を退任、世襲せず後進に道を譲った。1989年、日本人初の米国自動車殿堂入り。1991年8月5日、東京で84歳で没。
人物像
根っからの技術者で、発明狂・情熱の塊。「やって見せろ」「失敗せよ」が口癖で、自ら工場の床で油まみれになって機械と向き合った。気性が荒く、社員を殴ることもあったが、翌日には謝罪する素直さも併せ持つ。経営や財務には興味が薄く、すべて藤澤武夫に任せた。礼儀・序列を嫌い、肩書ではなく実力主義を徹底、技術者として天皇や首相にも臆せず接した。「愛・夢・情熱」をホンダのDNAとして語り続けた。
歴史的意義
ホンダは日本初の米国現地生産(1982年オハイオ工場)、世界初のハイブリッドカー量産(1999年インサイト)、アシモ等のロボット開発、2015年ホンダジェット発売と、常に世界初・日本初の挑戦を続ける企業として成長、本田宗一郎のDNAを体現している。本田の「人間尊重」「三つの喜び」(買う喜び・売る喜び・創る喜び)の経営理念は現在もホンダ哲学の中核。死後の1993年、本田は日本人として唯一(当時)米国自動車殿堂に加え、世界的評価が確立した。静岡県浜松市の本田宗一郎ものづくり伝承館は見学可能。藤澤武夫との同時退任は「企業文化」を個人崇拝から守る模範として経営学でも研究されている。
逸話・エピソード
藤澤武夫との運命的な出会い——1949年
1949年8月、本田は共通の知人・竹島弘(通産省官僚)の紹介で東京・銀座の小料理屋で藤澤武夫と初対面。本田はその場で「俺は技術しか分からん。経営はあんたに任せる。金の管理もあんたがやってくれ」と即決、藤澤も「分かった」と応じた。以後、本田は技術・藤澤は経営と完全分業し、本田技研工業は20年足らずで世界的企業に成長。二人は互いに「あんた」と呼び合い、ホンダの重要な決定はすべて二人の合意で行われた。1973年には藤澤と同時に社長を退任する決断も下し、個人崇拝を排除した企業文化を残した。本田は後年「藤澤に出会えたのは、俺の人生最大の幸運だった」と語った。
スーパーカブと1億台の夢——1958年
1958年8月、本田技研工業は「スーパーカブC100」を発売。本田宗一郎自ら「蕎麦屋の出前持ちが片手で運転できるバイク」を目標に設計。50ccエンジン・自動遠心クラッチ・踏み換えチェンジ・ステップスルーのフレーム構造・プレスフレーム採用で、耐久性・燃費・使いやすさの三拍子を実現した。発売と同時に爆発的ヒット、1960年代には米国進出時の「You meet the nicest people on a Honda」キャンペーンで、バイクの暴走族イメージを覆した。2017年、スーパーカブの世界累計生産台数は1億台を突破、単一車種として世界最多。2018年にはグッドデザイン賞特別賞(ロングライフ部門)受賞。本田が夢見た「万人に愛される乗り物」は60年を超えて世界で愛され続けている。
─ 完 ─
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