1548年、三河国の本多家に生まれた。父・忠高(忠義)は忠勝が幼い頃に戦死しており、家康の父・松平広忠に代々仕えた武家の血筋を受け継いだ。13歳で初陣を飾り、以後生涯57回の合戦に参加しながら一度もかすり傷すら負わなかったと伝わる。天下三名槍の一つに数えられる「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用し、槍働きの猛将として徳川家中随一の武名を誇った。姉川の戦い・三方ヶ原・長篠・小牧長久手など家康の全ての主要な戦いに参加し、常に最前線で奮闘した。その武勇は敵方の武田信玄も「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称えたとされる。関ヶ原の戦いでは先鋒として参加し、東軍勝利に貢献した。1600年、大坂城にて豊臣秀頼に拝謁したが、秀頼の立派な体格に感涙したという逸話も伝わる。1602年に伊勢桑名藩10万石の藩主となり、晩年は統治に専念した。1610年に63歳で没した。本多忠勝が守った桑名藩・大多喜藩の地には今も彼を祀る神社や像が建ち、「最強の武将」として地元の誇りとなっている。