天文9年(1540年)、越後国岩船郡本庄(現・新潟県村上市)の国人領主・本庄房長の子として生まれた。本庄城(後の村上城)を居城とし、上杉謙信に仕えた。永禄11年(1568年)、長尾藤景・景治兄弟謀殺の恩賞を得られなかったことなどへの不満から武田信玄と結び、出羽の大宝寺義増とも結んで謙信に反旗を翻した(本庄繁長の乱)。謙信はまず庄内に兵を進めて義増を降伏させたうえで孤立した繁長を攻め、本庄城は約1年にわたり攻囲された。繁長は巧みな采配で抵抗を続け上杉方に色部勝長ら多数の犠牲を出させたが、翌永禄12年(1569年)、蘆名盛氏の仲介により嫡男・顕長を人質に差し出して降伏、所領の一部を削られたうえで謙信に帰参した。以後は上杉家の重臣として仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦時には出羽・長谷堂城の戦いで最上・伊達連合軍を相手に奮戦したことでも知られる。慶長19年(1614年)、75歳で没した。