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PERSON
井深大
井深大
ソニー共同創業者——技術志向の経営者
1908-1997 · 享年 89歳
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生涯
1908年4月11日、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に生まれた。父・井深甫は早稲田大学卒の電気技師で、大生後まもなく父が亡くなり母子で神戸に移住。早稲田中学校から早稲田大学理工学部電気工学科を卒業(1933年)、PCL(写真化学研究所、現・東宝撮影所の前身)に入社。1937年独立し日本光音工業、1940年日本測定器を設立。戦時中は海軍の研究開発に協力、この時期に盛田昭夫と知り合い戦後の協働のきっかけとなった。1945年10月、東京・日本橋白木屋3階の焼け残りビルで「東京通信研究所」を創設(社員20名)。1946年5月7日、井深38歳・盛田25歳らで「東京通信工業株式会社」(資本金19万円)を設立、後のソニーの前身となる。初期はラジオ修理・電気炊飯器・電熱座布団等を製造したが大きな成功は得られず、1950年日本初のテープレコーダー「G型」、1955年日本初のトランジスタラジオ「TR-55」、1958年小型ラジオ「TR-63」で世界的ヒット、1958年社名を「ソニー株式会社」に変更。1959年世界初の全トランジスタテレビ「TV8-301」、1968年トリニトロンカラーテレビ等、常に世界初を追求。1971年社長退任、会長・名誉会長を歴任。晩年は幼児教育に関心を持ち、1969年「幼児開発協会」(1972年「ソニー教育財団」に改称)を設立、『幼稚園では遅すぎる』等の著書で早期教育の重要性を説いた。1997年12月19日、東京で89歳で没。
人物像
生粋の技術者で、発明・発見に心から喜びを見出す人物。社員を「ソニーファミリー」と呼び、自由闊達な組織風土を育んだ。「人がやらないことをやる」「他社の製品と同じものは作らない」を信条とし、常に世界初・業界初を追求。盛田昭夫との絶妙な補完関係——井深の技術ビジョンと盛田のマーケティング感覚——がソニーの急成長を支えた。晩年の幼児教育への情熱は、「人間の可能性を開く」技術者の哲学そのものであった。
歴史的意義
井深と盛田が創業したソニーは、ウォークマン(1979年)・CD(1982年・共同開発)・PlayStation(1994年)・ハンディカム等を世に送り、戦後日本の技術力と創造性の象徴となった。井深の「人々に夢と希望を与える製品を」という理念は現在もソニーのDNAとして継承されている。1992年文化勲章を受章。ソニー教育財団は現在も幼児教育・科学教育を支援、著書『幼稚園では遅すぎる』は親のバイブルとして読み継がれている。創業の地・日本橋白木屋付近には、2016年「ソニー歴史資料館」が開設され、ソニーの歴史が展示されている。故郷の栃木県日光市には井深大記念館も計画されていた。
逸話・エピソード
「東京通信工業設立趣意書」——1946年
1946年5月、井深は「東京通信工業設立趣意書」を執筆。「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」「極メテ活動的ナル設計トシテ明快ニ日本ニオケル電子工業界ノ先駆者トシテ」等、従業員の自由と創造性を重んじる理念を明文化した。これは戦後日本の新興企業に対する宣言書として歴史的価値を持ち、現在もソニーの原点文書として掲げられている。小さな焼け残りビルの3階で、わずか20数名の社員と始まった会社が、この精神によって世界的企業に成長した。2006年、ソニー創業60周年に合わせ、この設立趣意書の原本が公開された。
日本初のトランジスタラジオ「TR-55」——1955年
1953年、井深はベル研究所(米国)が発明したトランジスタの特許権を2.5万ドルで購入、小型ラジオへの応用を決意。当時日本の関係者は「家庭用ラジオにはトランジスタは無理」と反対したが、井深は技術者たちを鼓舞し、トランジスタの自社生産から研究開発を始めた。2年の奮闘の末、1955年8月、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」を発売。18,900円(当時大卒初任給の約2倍)と高価だったが、戦後の若者のライフスタイルを変える画期的製品となった。1958年の「TR-63」は米国で爆発的にヒット、「ポケットサイズ」として世界市場に打って出た。井深と盛田が後の世界的企業・ソニーの基盤を築いた記念碑的製品である。
─ 完 ─
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