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PERSON
市川房枝
市川房枝
婦人参政権獲得・新婦人協会・参議院議員
1893-1981 · 享年 88歳
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生涯
1893年(明治26年)5月15日、愛知県中島郡明地村(現・一宮市)に市川藤九郎の次女として生まれた。愛知県女子師範学校(現・愛知教育大学)を1913年卒業、小学校教員・新聞記者を経て1918年上京。1919年、山川菊栄・与謝野晶子らと「友愛会婦人部」結成。1920年3月、平塚らいてう・奥むめおと「新婦人協会」結成、治安警察法第5条改正運動を展開。1921年、アメリカに渡り3年間滞在、ILO(国際労働機関)駐米日本代表部で働きながらシカゴ・ニューヨークで女性参政権運動・労働運動を視察した。1924年帰国、「婦人参政権獲得期成同盟会」(後の婦選獲得同盟)を結成、書記長として婦人参政権運動を展開。1925年の男子普選後も女性参政権は認められず、以後20年にわたり運動を続けた。戦時中は大政翼賛会婦人指導者錬成所の指導などに関与(戦後公職追放の原因となる)。1945年12月、女性参政権実現、1946年4月10日戦後初の総選挙で39名の女性議員誕生。1947年GHQによる公職追放、1950年解除。1953年参議院議員選挙で全国区トップ当選、以後通算5期25年(1953-71、1974-81)在職。「選挙に金のかからない選挙」を提唱、理想選挙運動を展開、自身は一切買収・贈答を受けず「清廉の士」の代名詞となった。1980年87歳で第12回参議院議員選挙に出馬、全国区トップ当選(278万4998票)の大記録を樹立。1981年(昭和56年)2月11日、東京で心筋梗塞のため87歳で没。
人物像
質実剛健・実務家・清廉の士。演説や理論よりも地道な組織・運動の積み重ねを重視した。自身は生涯独身を通し、選挙では一切の金銭を使わない「理想選挙」を実践。清廉さで有名な「市川房枝事務所」には買収や饗応を受けない方針が徹底されていた。理想と現実を両立させた日本政治史上稀有な女性政治家。
歴史的意義
市川房枝は日本女性参政権運動の最大の立役者であり、1945年の女性参政権実現は彼女の25年に及ぶ運動の結晶。戦後は参議院議員として25年在職、選挙制度改革・政治資金規制・理想選挙運動を生涯のテーマとし、1980年の歴代最高得票記録は日本選挙史に不滅の金字塔。弟子筋には紀平悌子・田中寿美子・山高しげり・赤松良子ら戦後女性政治家・活動家が並び、現代に続く日本女性運動の系譜を形成した。東京・代々木の「市川房枝記念会女性と政治センター」では関連資料を所蔵し研究・啓蒙活動を継続。愛知県一宮市にも顕彰碑が建つ。
逸話・エピソード
1945年12月——女性参政権実現
1945年10月、GHQ司令官マッカーサーは幣原喜重郎首相に「五大改革指令」を発し、その第一が「女性参政権付与」であった。市川は終戦直後から「新日本婦人同盟」(後の「日本婦人有権者同盟」)を結成し、女性参政権実現に向け政府・議会に働きかけていた。1945年12月17日、衆議院議員選挙法改正により女性の選挙権・被選挙権が付与された。翌1946年4月10日の戦後初の総選挙では、1380万人の女性有権者が投票し、39名の女性議員が誕生。市川は「25年の運動がGHQの一声で実現した」と感慨を語ったと伝わる。日本の民主主義の礎石が築かれた歴史的瞬間であった。
1980年——87歳で全国区トップ当選
1980年6月22日投開票の第12回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)で、87歳の市川房枝は全国区から立候補、278万4998票という歴代最高得票記録で当選した。選挙運動では彼女が繰り返し語る「一切の買収・饗応は受けません・しません」「金のかからない選挙」の理想が、当時の金権選挙への批判と重なり、国民の圧倒的支持を獲得。市川自身は「高齢で全国区出馬は無理」と最初辞退したが、後援会・支持者の熱望に応えて出馬を決断した。当選後「この勝利は市川個人のものではなく、日本の民主主義と女性の戦後の歩みが評価されたもの」と語った。翌1981年2月に87歳で没し、この選挙が最後の政治活動となった。
─ 完 ─
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