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PERSON
池田勇人
池田勇人
所得倍増計画を掲げた高度成長の設計者
1899-1965 · 享年 66歳
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生涯
1899年12月3日、広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)の酒造家・池田吾一郎の次男として生まれた。第一高等学校を経て京都帝国大学法学部を卒業(1925年)、大蔵省に入省。若くして大病(落葉状天疱瘡)にかかり長期療養を余儀なくされたが、復帰後は主計局主計官等を歴任。1945年主税局長、1947年大蔵事務次官に昇進。1949年、第1次吉田茂内閣で大蔵大臣として政界入り。ドッジ・ラインによる超均衡予算を断行しインフレを収束させた。「貧乏人は麦を食え」発言(1950年)で物議を醸すも吉田の信任厚く、吉田学校の筆頭格となる。1960年7月19日、岸信介退陣後を受けて第58代内閣総理大臣に就任。「寛容と忍耐」を掲げ安保闘争で分裂した国論をまとめ、12月27日に「国民所得倍増計画」を閣議決定、10年で国民総生産を倍にする目標を打ち出した。実際には7年で達成、日本の高度経済成長を象徴する政策となる。第59・60代と通算3期務めたが、1964年東京オリンピック閉会翌日に病気を理由に退陣。1965年8月13日、咽頭癌のため東京・築地の国立がんセンターで65歳で没。
人物像
気さくで庶民的な人柄、豪快な酒豪として知られた。若き日の大病経験から「人生一度きり」と達観し、豪放磊落な性格を育んだ。一方で大蔵官僚時代に培った数字への強さ、経済政策への深い理解を併せ持つ。「所得倍増」という大衆に分かりやすいスローガンを掲げ、政治を難解な議論から生活向上の実践へと転換した手腕は卓越。側近の下村治・大平正芳・宮沢喜一ら「池田ブレーン」を重用した。
歴史的意義
所得倍増計画は戦後日本の高度経済成長を象徴する経済政策となり、池田退陣から50年以上経た21世紀にも「平成の所得倍増」等の形で言及され続けている。1964年東京オリンピック・東海道新幹線開業など、戦後日本の飛躍を代表する国家プロジェクトは池田政権下で実現された。また「寛容と忍耐」の政治スタイルは、安保闘争で分裂した国論を癒し、自民党長期政権の基盤を作った。池田の系譜は大平正芳・鈴木善幸・宮沢喜一・岸田文雄へと受け継がれ、自民党保守本流「宏池会」として現在も存続する。池田の生誕地である広島県竹原市には池田勇人記念館が建てられた。
逸話・エピソード
「貧乏人は麦を食え」発言——1950年
1950年12月7日、参議院予算委員会で池田大蔵大臣は所得別の消費について質問され「所得の少ない人は麦を多く食い、所得の多い人は米を食うということは、経済の原則にかなっている」と答弁した。新聞はこれを「貧乏人は麦を食え」と短縮して報道、国民の激しい反発を招いた。翌1951年、池田はGHQのシャウプ勧告に基づく税制改革を進める中で、不信任案を突きつけられ大蔵大臣を辞任。この失言は戦後政治史の有名な「舌禍」として記録されたが、池田本人は経済学的には正しいことを言ったまでと晩年まで主張した。失言を糧に政治感覚を磨き、10年後の首相就任へと繋がった。
所得倍増計画——1960年
1960年9月、池田は所信表明演説で「10年以内に国民所得を2倍にする」との目標を発表。12月27日の閣議で「国民所得倍増計画」を決定した。経済学者・下村治の理論を基礎とし、年率7.2%の経済成長を10年間維持すれば実現可能と算出。当時の日本のGNPは1960年の13.2兆円から、計画達成目標の1970年には26.4兆円とされたが、実際には1967年、わずか7年で達成された。1970年のGNPは73.1兆円と、計画の2.8倍に達した。所得倍増計画は単なる数値目標ではなく、「経済成長で国民生活を豊かにする」という戦後日本の国家目標を明確化し、自民党長期政権の基盤となった。日本初のカラーテレビ普及、マイカー時代到来など、高度成長の具体像も池田時代に現れた。
─ 完 ─
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