今川義忠
今川義忠
駿河今川氏8代当主・遠江に散った猛将
1436-1476 · 享年 40歳
ま だ 出 会 っ て い ま せ ん
横地城を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
へぇ、と思う三話
横地城・勝間田城攻略——遠江平定の総仕上げ
文明8年(1476年)、遠江の有力国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮が斯波義良に通じて反旗を翻すと、今川義忠は自ら500騎を率いて出陣した。横地城(別名・金寿城)と勝間田城を相次いで攻め落とし、両当主を討ち取って遠江における今川氏の優位を決定づけた。この勝利は義忠にとって遠江経営の総仕上げとなるはずだったが、皮肉にもこれが彼の最後の戦いとなった。
塩買坂の不意打ち——凱旋の帰路に散った当主
横地・勝間田両城を攻略した義忠の軍勢が凱旋する途上、遠江塩買坂(現・静岡県菊川市)に差し掛かったところ、討たれた横地・勝間田両氏の残党が一揆を起こして不意打ちを仕掛けた。指揮を執っていた義忠は流れ矢を受けて落命した。享年41。この急死により嫡子・龍王丸(今川氏親)はわずか3歳で家督を継ぐことになり、今川家中では家督争いが勃発したが、義忠の義弟にあたる伊勢盛時(後の北条早雲)が調停に乗り出して収拾した。
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生い立ちから最期まで
永享8年(1436年)、駿河今川氏6代当主・今川範忠の子として生まれた。享徳の乱(1454年)では鎌倉まで進軍して古河公方・足利成氏の討伐に功を挙げ、8代将軍・足利義政から感状を受けた。寛正2年(1461年)に駿河国守護職を継承し、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱では東軍として行動した。正室には伊勢盛定の娘で伊勢盛時(後の北条早雲)の姉妹にあたる北川殿を迎え、文明5年(1473年)に嫡子・龍王丸(後の今川氏親)が生まれた。応仁2年(1468年)、盟友・細川勝元の要請を受けて駿河に帰国すると、遠江国への進出を積極的に図り、遠江守護・斯波氏やその配下の在地国人と度々戦った。文明8年(1476年)、斯波義良に通じて反旗を翻した遠江の国人・横地四郎兵衛(横地城主)と勝間田修理亮(勝間田城主)を討伐するため、500騎を率いて出陣。両城を攻め落とし両人を討ち取ったが、その帰路、遠江塩買坂(現・静岡県菊川市)で横地・勝間田両氏の残党による不意打ちに遭い、流れ矢に当たって落命した。享年41。跡を継いだ嫡子・龍王丸はまだ幼く、今川家の家督をめぐる争いが生じたが、外戚の伊勢盛時(北条早雲)の後見によって収拾され、龍王丸は元服して今川氏親を名乗り、後の駿河今川氏繁栄の礎を築いた。
人物像
若くして享徳の乱に従軍し武功を挙げるなど武勇に優れ、応仁の乱後の混乱に乗じて遠江へ積極的に進出する行動力を持つ武将であった。一方で横地・勝間田両氏討伐後、油断からか帰路の警戒を怠り不意打ちを受けて落命しており、性急な戦後処理が命取りとなった。
歴史的意義
義忠の横地城・勝間田城攻略と塩買坂での落命は、遠江における今川氏の勢力拡大とその挫折を象徴する出来事として遠江の地域史に刻まれている。義忠の急死で生じた家督争いを収拾した外戚・伊勢盛時(北条早雲)は、この一件を機に今川家の後見役として駿河に地歩を築き、後に自立して戦国大名化する足がかりを得た。義忠の子・氏親は今川家の勢力を大きく伸長させ、孫の今川義元は「海道一の弓取り」と称される戦国大名へと成長した。
家系図
本人
今川義忠
1436-1476
正室
不詳-1518
北川殿
伊勢盛定の娘。伊勢盛時(北条早雲)の姉妹。
─ 完 ─
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