長州藩士の家に生まれ、吉田松陰の松下村塾で学び、伊藤博文と深い友情を結んだ。1863年、英国留学中に攘夷の愚を悟り、下関戦争開戦を知ると急ぎ帰国して停戦交渉に奔走した。明治維新後は大蔵省に入り、近代的な財政制度の整備を主導した。大蔵卿・外務卿・外務大臣・内務大臣・農商務大臣など要職を歴任し、特に外務大臣時代(1879〜1887年)に条約改正(不平等条約撤廃)交渉に取り組んだ。日本を西洋化することで列強に認めさせようとした「鹿鳴館外交」は華々しかったが、条約改正の失敗と世論の批判で辞任を余儀なくされた。その後も政財界に強い影響力を持ち、三井財閥との深い関係でも知られる。日清戦争後の下関条約交渉にも関与した。1915年9月1日に79歳で没した。長州閥の重鎮として明治の政治・経済・外交に幅広く貢献した実業政治家であった。