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PERSON
一遍
一遍
時宗開祖・踊り念仏
1239-1289 · 享年 50歳
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生涯
伊予国(現在の愛媛県)の豪族・河野通広の子として1239年に生まれた。10歳で出家し、九州・太宰府に赴いて浄土宗の聖達のもとで念仏の修行を積んだ。いったん故郷に戻って結婚・還俗したが、妻の死を機に再出家し、各地を行脚した。1271年に熊野権現(那智大社)で神がかり的な啓示を受け、「念仏の功徳は信・不信を問わず、すべての人に平等に及ぶ」という絶対他力の境地に達した。これ以後、念仏の名号を記した「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」の札(賦算)を人々に配りながら全国を遊行する生涯を歩んだ。諸国を渡り歩く中で「踊り念仏」を広め、念仏を唱えながらリズムよく踊ることで身分・性別を超えたあらゆる人々が法悦の境地に至れると説いた。その踊り念仏の光景は弟子・円伊が描いた絵巻「一遍聖絵」(国宝)に生き生きと伝えられている。一か所に定住することなく生涯を旅と布教に捧げ、25万人以上に念仏札を配ったとされる。1289年8月、兵庫の観音堂(現在の神戸市)にて51歳で入寂した。臨終に際し、自らの著作や手紙の類をすべて焼き捨てたという。時宗の開祖。
人物像
一切の執着を捨てた遊行者。所有物を持たず、宗派や身分の壁を超えて万人に念仏を説いた。自由奔放でありながら深い宗教的境地に達していた。
歴史的意義
時宗の開祖。『一遍聖絵』は中世の風俗・庶民生活を描いた国宝級の絵巻として美術史的にも重要。遊行寺(藤沢市)が総本山。「捨ててこそ」の精神は日本文化に影響を与えた。
逸話・エピソード
踊り念仏——身分・性別を超えた法悦の輪
一遍は念仏を唱えながらリズムよく踊る「踊り念仏」を広めた。当初は「不謹慎だ」との批判もあったが、貴族から武士、庶民まであらゆる身分の男女が念仏の輪に加わる光景は、中世社会における仏教の民主化を象徴した。弟子・円伊が描いた絵巻「一遍聖絵」(国宝)には生き生きとした踊り念仏の場面が描かれ、当時の社会の断面を今に伝えている。
臨終に著作をすべて焼き捨てた捨離の聖人
一遍は「捨ててこそ」を信条とし、所有物を持たずに生涯を遊行と布教に捧げた。1289年に兵庫の観音堂で入寂する際、自らの著作・手紙・記録の類をすべて焼き捨てたという。「残すものは念仏の功徳だけでよい」という徹底した無執着の精神が、この最期の行為に凝縮されている。
関連する歴史的事件
1200
鎌倉文化
12〜13世紀、武士政権の成立とともに展開した力強く写実的な文化。公家文化(伝統)と武家文化(新興)、宋・元からの新しい影響が融合した。彫刻では運慶・快慶ら慶派が東大寺南大門金剛力士像(1203年)、興福寺北円堂無著・世親像などの傑作を残した。建築では東大寺南大門の大仏様、円覚寺舎利殿の禅宗様が伝来。鎌倉新仏教(法然・浄土宗、親鸞・浄土真宗、一遍・時宗、栄西・臨済宗、道元・曹洞宗、日蓮・日蓮宗)が庶民に広まった。文学では『平家物語』『方丈記』(鴨長明)『徒然草』(吉田兼好)の三大随筆、勅撰和歌集『新古今和歌集』(1205年・藤原定家ら撰)が成立。
ゆかりの地 — 2
遊行寺
神奈川県
正応2年(1289年)、遊行上人・一遍は全国を遊行(巡礼)しながら念仏札を配り踊り念仏を広めた。身分や善悪を問わず「南無阿弥陀仏」を唱えれば往生できるという教えは、当時の社会の底辺にいた人々にも広く受け入れられた。一遍は寺院を持たず生涯遊行を続け、延慶2年(1299年)に遊行の途上で没した。弟子の他阿真教が藤沢に道場を開き、これが遊行寺(清浄光寺)の起源となった。国宝『一遍聖絵』は一遍の遊行の様子を描いた絵巻物として日本美術史上の傑作。
別願寺
神奈川県
弘安5年(1282年)、関東を遊行していた一遍上人は鎌倉大町を訪れ、当時真言宗能成寺の住僧であった公忍と出会った。公忍は一遍の念仏義に深く感じ入って弟子入りし、覚阿と改名して寺を時宗に改宗、寺号も「別願寺」とした。これにより別願寺は鎌倉における時宗布教の重要な拠点の一つとなり、関東の時宗寺院の中でも有力な地位を占めるに至った。一遍の遊行を通じた布教は、武家・庶民を問わず幅広い層に念仏を広めたが、別願寺の改宗はその関東展開を象徴する出来事として今に伝わる。
─ 完 ─
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