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PERSON
石田三成
石田三成
関ヶ原西軍の統率者
1560-1600 · 享年 40歳
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生涯
1560年、近江国(滋賀県)の地侍の家に生まれた。少年時代に長浜城主・羽柴秀吉に才能を見出され小姓として仕え、以後豊臣政権の中枢で文治派官僚として頭角を現した。太閤検地・刀狩の実施に際して実務を担い、五奉行の一人として財政・行政・朝鮮出兵の兵站管理を担当した。武断派の加藤清正・福島正則らと折り合いが悪く、しばしば対立した。1598年の秀吉の死後、徳川家康の台頭を危惧し、前田利家の没後は西軍を糾合して家康に対抗。「内府ちがひの条々」を諸大名に送り付け、家康の不法を告発した。1600年の関ヶ原の戦いでは豊臣家への忠義から西軍の総大将として奮闘したが、小早川秀秋の裏切りなどによって開戦からわずか数時間で大敗。近江から逃走中に田中吉政に捕縛され、同年10月1日に京都・六条河原で斬首された。享年41歳。盟友・大谷吉継との友情は後世に語り継がれる義の物語として知られる。石田三成の居城・佐和山城跡(滋賀県彦根市)には多くの訪問者が訪れ、豊臣への忠義を貫いた律義者の生涯を偲んでいる。
人物像
清廉潔白な吏僚肌で実務に長けていたが、武断派の加藤清正・福島正則らとは折り合いが悪かった。大谷吉継との友情は有名で、義に厚い一面も持つ人物であった。
歴史的意義
関ヶ原の敗者として長く否定的に語られたが、近年は豊臣家への忠義と行政手腕が再評価されている。「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」の句が有名。
辞世の句
辞 世 の 句
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
逸話・エピソード
大谷吉継との三杯の茶の友情
三成が秀吉の小姓時代、茶会で粗末な茶を三回にわたって差し出した際、大谷吉継だけが文句を言わずに飲み干したと伝わる。この時の感謝から生涯の友情が生まれた。関ヶ原では癩病を患い包帯で目を覆った吉継が、勝ち目の薄い西軍に加わったのは「三成への義理のため」と言われ、日本史上最も美しい友情の物語として語り継がれる。
「義」を貫いた関ヶ原での敗北
1600年の関ヶ原の戦いは、三成が豊臣家への忠義から立ち上がった戦いであった。しかし小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れ。三成は逃亡中に捕縛され、処刑前夜も従容として乱を起こした大義を述べたと伝わる。六条河原で処刑される際には柿を勧められたが「腹を下すから」と断ったとも伝わり、死の直前まで信念を貫いた律義者として後世に敬愛されている。
ゆかりの地 — 2
大坂城
大阪府
秀吉の側近として大坂城の行政を取り仕切り、豊臣政権の奉行として活躍した。秀吉没後も大坂城を豊臣家の拠点として守り続け、関ヶ原合戦で敗れて処刑されるまで豊臣家への忠節を貫いた。
大坂冬の陣
大阪府
豊臣家の重臣として冬の陣に加わり、守城方の軍議に参与した。関ヶ原の戦いで既に斃れていたが、冬の陣は彼の遺志を継ぐ豊臣方の最後の抵抗として位置づけられる。
─ 完 ─
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