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PERSON
板垣退助
板垣退助
自由民権運動の父
1837-1919 · 享年 82歳
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生涯
土佐藩上士の家に生まれ、1868年の戊辰戦争では官軍の指揮官として活躍した。明治維新後は新政府の参議となったが、1873年の征韓論問題で西郷隆盛・後藤象二郎らとともに下野した(明治六年の政変)。翌1874年、副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らと「民撰議院設立建白書」を政府に提出して国会開設と民権伸張を求め、自由民権運動の先駆けとなった。高知で立志社を設立し、全国規模の自由党(1881年)を結成して民権運動を主導した。1882年4月6日、岐阜演説会場で暴漢に刺された際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされる言葉は、自由民権運動の象徴として今も語り継がれる。その後、自由党は解散するが板垣は変わらず民権運動を続けた。晩年は伯爵に叙され、1919年7月16日に83歳で没した。彼の民権思想は大正デモクラシーの精神的源泉となり、日本の民主主義発展に深く貢献した。
人物像
情熱的で信念の人。武士としての勇敢さと民権思想への純粋な情熱を兼ね備え、刺客に刺されてもその信念を曲げなかった。庶民に寄り添う姿勢が広く支持された。
歴史的意義
自由民権運動の指導者として日本の議会政治・民主主義の発展に不可欠な役割を果たした。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は日本の自由主義の精神を象徴する名言として永遠に語り継がれる。
逸話・エピソード
「板垣死すとも自由は死せず」——日本の自由民権運動の象徴的言葉
板垣退助は1882年4月、岐阜での演説中に刺客に短刀で刺された(岐阜事件)。傷を負った板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという言葉は、日本の自由民権運動の象徴的名言となった(史実かどうかは議論がある)。1881年に自由党を結成した板垣は、民選議院設立を求める建白書(1874年)の提出から始まる自由民権運動のリーダーとして活動した。大日本帝国憲法発布(1889年)・帝国議会開設(1890年)という果実を見届けながらも、その後は藩閥政治との対立を続けた。
名言
「板垣死すとも自由は死せず」
─ 完 ─
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