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PERSON
伊東玄朴
伊東玄朴
幕府奥医師・お玉ヶ池種痘所創設者
1801-1871 · 享年 70歳
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生涯
1801年、肥前国佐賀藩領の農家に生まれた。若くして医学を志し、佐賀で古賀穀堂に学んだ後、長崎でシーボルトの鳴滝塾に入門、蘭学と西洋医学を修めた。江戸で開業し、佐賀藩医として西洋医学の普及に努める。1858年、幕府の許可を得て江戸神田お玉ヶ池に私財で種痘所を開設、ジェンナーの種痘法を普及させた。同年、幕府奥医師(将軍の侍医)となり、西洋医学者としては初めて幕府最高位の医師の地位に就いた。お玉ヶ池種痘所は翌1859年に幕府直轄となり、後に西洋医学所・医学校、さらには東京大学医学部の源流となった。1871年没、享年71。明治維新を見届けて亡くなった。
人物像
温和にして粘り強い政治的才覚の持ち主。蘭方医に対する漢方医の強い抵抗の中、対立を避けつつ粘り強く幕府を説得して西洋医学の地位を確立した。学者であると同時に医療行政の組織者として卓越した能力を発揮した。
歴史的意義
玄朴が開いたお玉ヶ池種痘所は、日本における公的西洋医学教育機関の始まりであり、東京大学医学部の源流をなす。彼の尽力により天然痘予防のための種痘が全国に普及し、幕末明治の人口維持に多大な貢献をした。佐賀県神埼市の旧宅は現在も残り、市史跡となっている。西洋医学を幕府の中心に据えた功績は、近代日本医学の出発点として不朽である。
逸話・エピソード
1858年——お玉ヶ池種痘所の開設
1858年5月、玄朴は大槻俊斎・戸塚静海ら江戸の蘭方医83人と資金を出し合い、神田お玉ヶ池に種痘所を開設した。ジェンナーが1796年に発明した種痘法を日本に本格導入する拠点であった。天然痘で多くの命が失われていた時代、種痘所は庶民に無料で種痘を施し、急速に信頼を得た。翌1859年、幕府直轄となり「神田種痘所」となる。この小さな私塾こそ、後の東京大学医学部の源流である。
西洋医学者初の奥医師就任
1858年、幕府は玄朴を奥医師(将軍の侍医)に任命した。それまで奥医師は漢方医が独占してきた最高位の医官職である。13代将軍・家定が病弱であったこと、そしてコレラや天然痘の流行で西洋医学の効果が認められてきたことが背景にあった。漢方医の強い反発の中での任命であり、西洋医学の公的地位確立の象徴的事件であった。玄朴の政治的手腕なくしてこの画期は実現しなかった。
─ 完 ─
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