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PERSON
伊藤博文
伊藤博文
初代内閣総理大臣・明治憲法の父
1841-1909 · 享年 68歳
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生涯
長州藩の農家出身で、吉田松陰の松下村塾で学んだ。1863年、井上馨らとともにイギリスへ密航留学して西洋文明の優位を体感し、攘夷から開国へと思想を転換した。戊辰戦争後は明治政府に入り、岩倉使節団に参加して欧米の政治制度を視察した。1882年には単独渡欧してドイツ・オーストリアで憲法調査を行い、プロイセン型の立憲君主制をモデルとした大日本帝国憲法(1889年)の草案作成に中心的役割を果たした。1885年の内閣制度創設により初代内閣総理大臣に就任。計4次にわたって内閣を組織し、明治日本の政治基盤を構築した。日清戦争後の下関条約(1895年)・日英同盟(1902年)などの外交でも活躍した。伊藤は明治政府において最も多くの首相経験を持つ政治家であり、近代日本の国家制度を完成させた人物と評価されている。1909年10月26日、朝鮮・哈爾浜駅(ハルビン)で朝鮮独立運動家の安重根(アン・ジュングン)に暗殺された。享年68。初代枢密院議長・初代韓国統監も務めた。
人物像
実務的で現実主義的、そして非常に優れた政治的バランス感覚の持ち主。憲法制定という国家の根幹に関わる大業を達成した能力は突出していた。私生活では豪快な面もあり、複雑な人間性を持つ人物であった。
歴史的意義
大日本帝国憲法の制定と内閣制度の創設は伊藤最大の功績として近代日本の礎となった。初代内閣総理大臣として確立した政治制度は現代日本の統治システムの原型である。千円紙幣に肖像が使われていた時代もあり、日本近代史を象徴する人物として世に知られている。
逸話・エピソード
大日本帝国憲法の制定——伊藤博文が作った近代日本の政治的基盤
伊藤博文は1882年から欧州各国の憲法を視察し、プロイセン型の立憲君主制が日本に最適と判断した。帰国後、1885年に太政官制を廃止して内閣制度を創設し、自ら初代内閣総理大臣に就任した。1889年に大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に帝国議会が開設された。この立憲制国家の確立は日本が「文明国」として国際社会に認められる礎となった。1909年10月26日、哈爾浜駅で朝鮮の独立運動家・安重根に暗殺された。享年68歳。その死は日本の朝鮮への植民地支配を正当化する議論に利用されることもあった。
関連する歴史的事件
1871
岩倉使節団
明治4年(1871年)11月〜明治6年(1873年)9月、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳、総勢46名(留学生含め107名)が欧米12カ国を巡歴した使節団。不平等条約改正の予備交渉と欧米の政治・経済・軍事・教育・産業の実地視察が目的。条約改正は実現しなかったが、大久保の殖産興業、伊藤の憲法調査、津田梅子ら女子留学生派遣など、その後の日本近代化に絶大な影響を与えた。久米邦武『特命全権大使米欧回覧実記』は詳細な記録。
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