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PERSON
伊藤若冲
伊藤若冲
江戸中期の奇想の絵師、動植綵絵
1716-1800 · 享年 84歳
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生涯
1716年(正徳6年)、京都・錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として生まれた。本名・伊藤源左衛門、若冲は雅号で、相国寺の禅僧・大典顕常から授かった「大盈若冲」(大いに盈つるは冲しきが若し、『老子』第45章)に由来する。幼少期から絵を好み、独学で狩野派・宋元画を研究。23歳で家業を継いだが、商売よりも絵画に没頭し、1755年(宝暦5年)40歳で家督を弟に譲り隠居、絵画に専念する身となった。代表作『動植綵絵』全30幅は1757年(宝暦7年)から1766年(明和3年)頃にかけて約10年がかりで制作、自邸の庭に数十羽の鶏を飼って徹底観察した『群鶏図』、極彩色の絹本著色で動植物の生命力を描いた金字塔的作品となった。1758年〜1764年頃には、生家近くの相国寺に『釈迦三尊像』(3幅)を奉納、後に『動植綵絵』30幅も合わせて寄進した(現在『動植綵絵』は皇室所蔵・三の丸尚蔵館蔵、国宝指定)。晩年は天明の大火(1788年)で京都の自邸を焼失し、深草の石峰寺門前に隠棲、五百羅漢石仏の制作にも関与した。1800年(寛政12年)9月10日、85歳で没。墓所は石峰寺。
人物像
大商人の家に生まれながら商売には興味を示さず、独身を貫き絵画一筋に生きた変わり者。「若冲」の名の通り、世俗を超えた境地を求めた。庭に何十羽もの鶏を飼って何時間も観察を続ける徹底ぶり、極めて細密な筆致と斬新な構図、写実と装飾の融合など、江戸時代中期の絵師の中でも際立つ独創性の持ち主。一方で禅と深い関わりを持ち、相国寺の禅僧・大典顕常を生涯の師とし、晩年は石峰寺で禅的境地に達した。
歴史的意義
長く忘れられていたが、20世紀後半から「奇想の絵師」として再評価が爆発的に進み、現在では江戸絵画の代表者の一人。代表作『動植綵絵』全30幅は皇室御物・国宝(三の丸尚蔵館)、『釈迦三尊像』は重要文化財(相国寺)、『鳥獣花木図屏風』『樹花鳥獣図屏風』『仙人掌群鶏図襖』『大鶏雌雄図』など世界中の美術館に所蔵。2000年京都国立博物館の「没後200年若冲展」、2016年東京都美術館の「生誕300年記念若冲展」(5時間待ちの行列)など、近年の若冲ブームは社会現象となった。長野県信濃美術館の世界初の若冲常設館「信州中野市・中野市立日本のあかり博物館」、京都の伏見・石峰寺(若冲墓所)が代表的な巡礼地。
逸話・エピソード
『動植綵絵』全30幅——10年がかりの金字塔
1757年(宝暦7年)から約10年かけて、若冲は『動植綵絵』全30幅を制作した。極彩色の絹本著色で、鳥類11幅・魚介類10幅・植物9幅を含み、孔雀・鳳凰・鶴・鴨・鯉・蛸・蛙・南瓜・あさがお・薔薇など、当時の日本では描かれなかったものまで網羅。特に有名な『群鶏図』では、自宅の庭に数十羽の鶏を放し飼いにし、何ヶ月にもわたり鶏の動き・羽根の質感を観察、13羽の鶏を様々な姿勢で描き出した。1889年明治政府への献納を経て皇室御物となり、現在三の丸尚蔵館所蔵、2024年には全30幅が国宝に指定された。
石峰寺の五百羅漢——晩年の境地
1788年(天明8年)の天明の大火で京都の自邸を失った若冲は、深草の黄檗宗・石峰寺の門前に庵を結び晩年を過ごした。石峰寺住職・密山修義の依頼で、寺の裏山に石仏「五百羅漢」を刻むプロジェクトに参加(実際は若冲が下絵を描き、石工が刻んだとされる)。釈迦の生涯と弟子たちを表現する約500体の石仏群は、若冲晩年の禅的境地を物語る。現在も石峰寺裏山に残る石仏は、長年の風雨で柔らかな表情となり、若冲のユーモアと慈悲心を伝えている。若冲の墓も同寺にあり、毎年9月10日の命日には「若冲忌」が営まれる。
─ 完 ─
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