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PERSON
伊藤仁斎
伊藤仁斎
古義学派創始者・京都堀川古義堂
1627-1705 · 享年 78歳
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生涯
1627年、京都堀川の材木商・鶴屋七右衛門の長男として生まれた。幼名・源吉。11歳より朱子学を学び始めたが、28歳の時に病気を機に家業を弟に譲り、学問に専念する道を選んだ。以後30年以上、自宅を拠点に朱子学・仏教・道教を幅広く研究し、晩年に独自の学問「古義学」を確立。朱子や程子の解釈を排し、論語・孟子の原典を古代の言葉の意味に即して読み解くべきと主張。1662年、堀川の自宅に「古義堂」を開き、私塾として3000人を超える門弟を育てた。主著『語孟字義』(1683年)『童子問』(1691年)は、中国儒教の教条を脱した日本独自の儒学の始まりとされる。息子の伊藤東涯が父の学を大成し、伊藤家は代々「古義堂」を継承。1705年、京都で79歳で没。
人物像
温厚にして懐疑精神に富む学者。朱子学を単に否定するのではなく、熟読を経て「孔孟の教えと違う」と結論に至った思索家。日常を大切にし、生活を学問と一致させる生き方を貫く。「仁」を「愛」として解釈し直し、観念的な道徳論から実践的な人間愛の哲学へと儒学を転換させた。門弟には京都町人・武士・医師など多様な層が集まり、「人情の学」としての儒学を広めた。
歴史的意義
古義学派は荻生徂徠の古文辞学派と並ぶ「古学」の双璧として、朱子学官学化への最初の挑戦となった。『語孟字義』の方法論は、テキストを歴史的文脈で読む近代文献学の先駆として評価される。息子・東涯および孫・蘭嵎によって発展し、堀川の古義堂は1904年まで240年間続いた京都儒学の拠点。現在、京都市上京区の古義堂跡地は史跡として保存されている。明治以降は津田左右吉・丸山真男らの近代日本思想史研究において、日本的合理主義の起点として再評価されている。
逸話・エピソード
1662年——堀川古義堂の開設
1662年、36歳の仁斎は京都堀川の自宅を「古義堂」と名付け、私塾を開設した。向かい合う西岸には朱子学者・山崎闇斎の塾があり、「朱子学の闇斎、古学の仁斎」と並び称される儒学の二大拠点が堀川に並んだ。仁斎の講義は、論語の一句一句を古代中国の用例に照らして解釈する独特の方法で、朱子の解釈を「後世の附会」として批判した。門人は京都を中心に全国に広がり、3000人を超えたとされる。
「仁」を「愛」として読み直す
仁斎は朱子学が「仁」を抽象的な「理」として形而上学化したことを批判し、「仁とは愛なり、人を愛する心なり」と平易に定義した。この解釈は『語孟字義』に詳しく、「愛」という誰もが理解できる人間感情から儒教倫理を出発させる画期的な発想であった。形式主義的な儀礼・礼法ではなく、人間同士の具体的な情愛こそが道徳の基礎であるとする思想は、のち明治のキリスト教受容にも影響を与え、「儒教=人情の学」というイメージを定着させた。
─ 完 ─
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