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PERSON
准如
准如
本願寺第十二世
1577-1631 · 享年 54歳
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生涯
1577年、本願寺第11世・顕如の三男として生まれた。長兄・教如が石山合戦の和睦に反対して父と袂を分かったため、顕如は教如を義絶し、准如を後継者に指名した。1592年、顕如の死により15歳で本願寺第12世法主に就任。豊臣秀吉の庇護を受けて本願寺の地位を安定させた。関ヶ原の戦いでは西軍寄りの立場を取ったが、徳川家康に謝罪して許された。しかし1602年、家康は教如に東本願寺創立を認めたため、以後の本願寺は東西に分裂することとなる。准如の系統は「西本願寺(本願寺派、お西さん)」として続き、現在も京都堀川七条の西本願寺を本山として、全国約1万の末寺を擁する最大の浄土真宗教団となっている。准如は戦乱で焼失していた本願寺の堂舎を整備し、現在の西本願寺の基礎を築いた。
人物像
兄・教如の強硬派とは対照的に、穏健で協調的な性格。父に選ばれた後継者として秀吉・家康という時の権力者と慎重に関係を築き、本願寺教団の存続と発展を図った。戦うより守る、壊すより築くタイプの宗教指導者。
歴史的意義
戦国末の混乱期に本願寺教団を守り抜き、現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の基礎を築いた。京都の西本願寺は国宝・唐門や御影堂などを擁し、世界文化遺産「古都京都の文化財」にも登録されている。准如の堅実な運営により、西本願寺は日本最大の浄土真宗教団として4世紀にわたり民衆信仰の中心であり続けている。
逸話・エピソード
兄を越えて後継者に選ばれる
本来なら長男の教如が本願寺を継ぐはずだった。しかし石山合戦の和睦問題で教如が父・顕如に逆らい徹底抗戦を主張したため、顕如は教如を義絶し、三男の准如を後継者に指名した。当時わずか15歳の准如にとって、兄を飛び越えて法主となることは大きな責任であり、また兄弟間の確執の火種にもなった。准如は父の選択に応えるべく、秀吉との関係を慎重に築き教団の存続を図った。
戦乱の本願寺を再建する
石山合戦による石山本願寺の焼失・退去後、本願寺は一時的に鷺森・貝塚・天満と転々とした。准如は秀吉の命により1591年に京都堀川七条の地を与えられ、ここに本願寺の本格的な再建を進めた。御影堂・阿弥陀堂などの主要伽藍を整備し、現在の西本願寺の原型を作り上げた。長きにわたる戦乱で疲弊した教団を立て直し、平和な時代の宗教活動の基盤を築いた功績は大きい。
今日の西本願寺を築いた人
准如の時代に整備された西本願寺は、その後も歴代法主により充実されたが、基本的な伽藍配置は准如の代に決まったものである。京都観光の定番スポットとして、また世界文化遺産として世界中から訪れる参拝者・観光客を受け入れている西本願寺の姿は、戦国末に教団の再建に尽力した准如の働きがなければ存在しなかった。静かではあるが、本願寺史上最も重要な法主の一人である。
ゆかりの地 — 1
西本願寺
京都府
慶長7年(1602年)、徳川家康が兄・教如に烏丸七条の地を寄進して東本願寺を分立させた後、堀川六条の地を本拠とする本願寺は「西本願寺」として准如が12世法主を継承した。准如は父・顕如から後継に指名されながら兄・教如との確執の末に義絶問題を経て本願寺を継いだ人物で、天正19年(1591年)の大坂天満からの移座を経て、堀川の地に壮大な御影堂・阿弥陀堂の伽藍を整備した。現在まで続く浄土真宗本願寺派(お西)の体制は、准如の代にほぼ確立されたといってよい。
─ 完 ─
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