本来なら長男の教如が本願寺を継ぐはずだった。しかし石山合戦の和睦問題で教如が父・顕如に逆らい徹底抗戦を主張したため、顕如は教如を義絶し、三男の准如を後継者に指名した。当時わずか15歳の准如にとって、兄を飛び越えて法主となることは大きな責任であり、また兄弟間の確執の火種にもなった。准如は父の選択に応えるべく、秀吉との関係を慎重に築き教団の存続を図った。
石山合戦による石山本願寺の焼失・退去後、本願寺は一時的に鷺森・貝塚・天満と転々とした。准如は秀吉の命により1591年に京都堀川七条の地を与えられ、ここに本願寺の本格的な再建を進めた。御影堂・阿弥陀堂などの主要伽藍を整備し、現在の西本願寺の原型を作り上げた。長きにわたる戦乱で疲弊した教団を立て直し、平和な時代の宗教活動の基盤を築いた功績は大きい。
准如の時代に整備された西本願寺は、その後も歴代法主により充実されたが、基本的な伽藍配置は准如の代に決まったものである。京都観光の定番スポットとして、また世界文化遺産として世界中から訪れる参拝者・観光客を受け入れている西本願寺の姿は、戦国末に教団の再建に尽力した准如の働きがなければ存在しなかった。静かではあるが、本願寺史上最も重要な法主の一人である。