永禄6年(1563年)に生まれた。若くして豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、福島正則・加藤清正らと並ぶ「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。その後、伊予国正木の城主となり、朝鮮出兵にも水軍を率いて参陣した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後の加増で伊予の大名となった。慶長6年(1601年)、徳川家康の許可を得て勝山(のちの松山)に新たな居城の建設を計画し、翌慶長7年(1602年)より築城を開始。慶長8年(1603年)には本拠を正木から勝山へ移し、地名を「松山」と改めた。しかし築城は難工事で四半世紀以上を要し、完成を待たずして寛永4年(1627年)、会津の蒲生氏が後継者なく断絶したことに伴い会津へ転封となった。松山城の完成は嘉明の後を継いだ蒲生氏、さらに松平氏の代まで持ち越された。寛永8年(1631年)、69歳で没した。松山城と松山という地名は、嘉明の築城計画にその起源を持つ。