禁門の変後の変装逃亡——幾松に命を救われた2年間の潜伏生活
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元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で長州軍が京都から敗退すると、長州を代表する政治指導者・桂小五郎(木戸孝允)は新選組や幕府の探索網を逃れて約2年間の潜伏生活を余儀なくされた。京都・但馬・出石など各地を転々としながら生き延びた木戸を陰で支えたのが、祇園の芸妓・幾松(後に妻となる松島竜)だった。幾松は幕府側の刺客から木戸をかばい、危険を冒して情報収集と連絡も行ったとされる。この過酷な潜伏生活で木戸は人間的に鍛えられ、感情よりも理性と大局観を重んじる政治スタイルを確立したとも言われる。慶応2年(1866年)に薩長同盟の交渉役として表舞台に復帰し、以後の日本史を決定づける大仕事へと突き進んだ。
薩長同盟の締結——龍馬の仲介で実現した倒幕の大局
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慶応2年(1866年)1月、木戸孝允(桂小五郎)と西郷隆盛は坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により、京都の小松帯刀宅で薩長同盟(薩長連合)を締結した。それまで対立・不信関係にあった薩摩藩と長州藩が手を結ぶことで、事実上の「倒幕連合」が誕生した。同盟は薩摩が幕府から長州を庇護し、長州は薩摩が尊王を支持するという相互条件のもとに締結された。この同盟がなければ幕府を打倒する武力は生まれず、明治維新は大幅に遅れた——あるいは全く異なる形になった——と歴史家は評価する。木戸は交渉の場で「今は我らが天下を取る時だ、小事に拘るな」と述べたとされ、大局観を持つ戦略家としての面目を発揮した。
廃藩置県——300年の封建制を3日で解体した明治最大の制度改革
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明治4年(1871年)7月14日、木戸孝允が主導した廃藩置県の詔が発布され、全国300余の藩が一夜にして廃止されて府県に移行した。それまで各藩が持っていた軍事・徴税・行政の権限が一気に中央政府へ集中し、日本は真の意味での統一近代国家へと転換した。木戸はこの改革を実行する前に、薩摩・長州・土佐の藩兵を「御親兵」として天皇の直属軍に編入する工作を秘かに進め、廃藩に反発する旧藩主・武士が武力蜂起できないよう根回しした。この周到な準備が、他国で類似の改革が流血革命を引き起こした事例が多い中、日本が無血でこの大転換を成し遂げた鍵の一つとなった。廃藩置県は明治維新最大の制度改革として、現在の都道府県制度の直接の原型となっている。