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PERSON
岸信介
岸信介
「昭和の妖怪」——安保改定を成し遂げた首相
1896-1987 · 享年 91歳
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生涯
1896年11月13日、山口県山口町(現・山口市)に佐藤秀助・茂世の次男として生まれた。幼少期に父の実家である岸家の養子となる。東京帝国大学法学部を首席級の成績で卒業(1920年)、農商務省に入省。商工官僚として頭角を現し、1936年満州国政府に出向、産業部次長として満州国経済を統制した。1939年帰国、商工次官を経て1941年東条英機内閣の商工大臣に就任、戦時経済を指導した。1944年倒閣運動に加担して東条内閣崩壊の引き金となる。敗戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されるも1948年12月24日不起訴・釈放。公職追放解除後の1953年、自由党から衆議院議員に当選し政界復帰。1955年自民党結成に関わり幹事長。1957年2月25日、第56代内閣総理大臣に就任。1960年1月19日ワシントンで新日米安全保障条約に調印、同年5月強行採決で条約を批准させたが、60年安保闘争で社会党・全学連・労組等の大規模反対運動に直面、6月23日条約発効後の7月15日に退陣表明。1987年8月7日、東京で90歳で没。
人物像
「昭和の妖怪」の異名を取るほど、戦前・戦中・戦後と時代を生き抜いた政治家。戦犯容疑から復活して首相に登りつめた強靱な意志と政治力の持ち主。物静かで論理的、感情を表に出さない官僚型指導者だが、目的のためには手段を選ばぬ冷徹さも併せ持つ。「悪運が強くないと政治家は駄目」が口癖だった。親米派でありながら自主憲法制定を生涯の目標とし、戦後レジームからの脱却を志向した。
歴史的意義
1960年安保改定により日本の冷戦期外交の枠組みが確定した。その後自民党保守本流に対する「岸派・清和会」を形成、福田赳夫・安倍晋太郎・森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫・岸田文雄と、岸人脈から多数の首相を輩出し、21世紀の日本政治を規定した。特に孫の安倍晋三は、岸の「戦後レジームからの脱却」を継承し、2015年の平和安全法制、2022年の憲法改正論議に至るまで、岸の路線を実現しようとした。山口県田布施町には岸信介・佐藤栄作兄弟の生家が残り、安倍晋三を含め3人の首相を輩出した「首相の町」として知られる。
逸話・エピソード
巣鴨プリズンからの生還——1948年
1945年9月、岸はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された。同房には東条英機らがおり、岸は「東条は悪運の尽きた男」と冷静に観察している。1948年12月23日、東条ら7名が処刑された翌日の12月24日、岸はA級戦犯として起訴されないまま釈放された。冷戦激化による占領政策の転換、いわゆる「逆コース」の象徴的出来事であった。釈放後の岸は政界復帰を目指し、1952年公職追放解除、1953年衆議院議員当選、1957年首相就任と、10年足らずで最高権力に上り詰めた。この劇的な復活が「昭和の妖怪」の称号を生んだ。
60年安保闘争と退陣——1960年
1960年1月、岸はアイゼンハワー大統領と新日米安保条約に調印。5月19日、衆議院で強行採決により条約を可決させると、全国で空前の反対運動が爆発した。国会を取り囲むデモは連日数十万人、6月15日には東大生・樺美智子が圧死する事件まで発生。アイゼンハワー訪日は中止、岸は条約自然承認成立後の7月15日に退陣を表明した。「声なき声を聞く」として反対運動に動じなかった岸だが、この闘争は日本戦後史上最大の国民運動として記録された。退陣直後の7月14日、岸は右翼青年に刺される暗殺未遂事件にも遭遇している。
─ 完 ─
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