南朝の重臣・北畠親房の子で、若くして奥州で戦死した兄・顕家の後を継ぎ、南朝方の陸奥経営を担った。興国元年(1340年)、鎮守府将軍として吉野から奥州へ迎え入れられ、田村庄の宇津峰に国府・鎮守府を置いた。暦応4年/興国2年(1341年)には南進拠点として津久毛橋城を築くなど、各地に城を構えて北朝方に対抗した。正平6年(1351年)冬、観応の擾乱の混乱に乗じて一時多賀国府を奪還したが、翌正平7年(1352年)初めに北朝方に再占領され、後醍醐天皇の孫・守永親王(宇津峰宮)を奉じて再び宇津峰城に籠城。正平8年(1353年)5月、吉良貞家率いる北朝軍の総攻撃により宇津峰城は落城し、顕信・守永親王は出羽方面へ逃れた。14年にわたり奥州で南朝方の抵抗を指導し続けた。