尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)に生まれ、豊臣秀吉と同郷の縁から幼少より小姓として仕えた。賤ヶ岳の戦い(1583年)では七本槍のひとりとして活躍し武名を上げた。1588年に肥後国南半国19万石(後に肥後一国)の大名に取り立てられ、熊本城を新たに築城した。文禄・慶長の役(1592・1597年)では二度にわたって朝鮮半島に出陣し、北部の諸城を攻略した。清正の虎退治の伝説はこの朝鮮出兵中に北方(満州国境付近)でトラを仕留めたとする逸話に基づく。関ヶ原の戦い(1600年)では東軍(徳川方)に付いて九州の西軍諸将を圧迫し、戦後に肥後一国52万石の大大名となった。徳川幕府との関係を保ちながら豊臣秀頼を支援するという難しい立場に置かれ、1611年には家康と秀頼の二条城会見の仲介を行ったが、その直後に発病し同年6月に50歳で没した。毒殺説も伝わるが真相は不明。熊本城の堅固な築城技術は後に西南戦争にて実証された。