応永28年(1421年)、伊予守護河野氏の一族・河野通元の子として生まれた。河野氏の分家「予州家」当主となり、本家の河野教通と伊予守護職を巡って激しく争った。文安6年(1449年)に初めて守護職に就くも翌年教通に交替、以後も享徳2年(1453年)・長禄3年(1459年)・応仁の乱後の文明9年(1477年)と、生涯で計4度守護職に任じられては失う抗争を繰り返した。応仁の乱では西軍に与して幕府・細川方と対立。文明10年(1478年)、伊予国和気郡で教通方と戦い敗北し、勢力を後退させた。晩年は伊予国三津の港を見下ろす港山城を拠点に据えたが、文明14年閏7月14日(1482年8月28日)、同城で病没した。享年62。子の通篤が跡を継いだが、まもなく本宗家に攻め落とされたと伝わる。