宗尊親王の子として1264年に生まれた。1266年、父・宗尊親王が幕府に謀反の嫌疑をかけられて将軍職を解かれ京都に送還されると、わずか3歳で第7代将軍に就任した。幼少での就任であったため幕府の重臣たちが国政を主導し、惟康自身は名目上の最高職を担うのみであった。在任中には文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)という二度の蒙古(元)襲来が起こり、北条時宗が執権として国難に対処した。惟康は将軍として蒙古撃退の名目上の最高指揮者に位置づけられたが、実際の軍事・外交の決定は全て執権・北条氏が行った。1289年、在任23年を経て将軍職を解かれて京都に送還され、後深草天皇の皇子・久明親王が後任として鎌倉に下向した。その後も生き続け、1326年に63歳で没した。最長在任期間を誇りながら実権皆無という、鎌倉幕府における将軍の形骸化を最も体現した人物の一人。