1149年、藤原忠通の六男として摂関家の名門に生まれた。幼少より学問・詩歌に秀で、長じて摂政・関白を歴任した。源頼朝との協力関係を積極的に築き、頼朝が武家政権を樹立するにあたって朝廷との調整役を務めた。頼朝は政治的後ろ盾として兼実を支持し、1191年に後白河法皇が没すると兼実は関白に就任して朝廷政治の頂点に立った。しかし源通親(土御門通親)が兼実の政敵として台頭し、後鳥羽天皇の信任を得た通親の策謀により1196年に失脚・解官させられた。晩年は法然に帰依し、その専修念仏の教えに深く傾倒した。兼実の庇護は法然が京都で布教を継続するうえで重要な政治的支援となった。1207年に没。兼実が生涯つけ続けた日記『玉葉』は平安末期・鎌倉初期の政治・文化・社会を克明に記録した最重要の一次史料として、今日の歴史研究に欠かせない。