生年は不詳。肥後国山鹿郡を拠点とした国人・隈部氏の当主。代々の居館・隈部館を拠点とし、天正8年(1580年)に隈府城へ本拠を移すまでここで勢力を築いた。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定後に肥後国主として入部した佐々成政が急激な検地を強行しようとしたことに反発し、親永は肥後国人一揆の中心人物としてこれに抵抗した。一揆は肥後国内の国人衆を巻き込んで広がったが、豊臣方の討伐軍によって鎮圧され、親永は天正16年(1588年)6月20日、切腹に追い込まれて生涯を終えた。この一揆の責任を問われた佐々成政も同年、秀吉により切腹を命じられている。