上野国(現・群馬県)伊勢崎の農家に生まれた忠治は、若くして博徒の世界に入り、20代で上州一帯を仕切る親分となった。しかし彼が後世に語り継がれるのは博徒としての凄みだけではない。天保の大飢饉(1833〜1836年)のとき、忠治は私財を投げ打って農民に食料を配り、困窮する村人を助けた。「やくざの親分が百姓を救う」——その逆説的な義侠の行為が人々の心をつかんだ。幕府の代官・笹川繁蔵との対立が激化し、忠治は遂にお尋ね者となって赤城山に立てこもった。江戸歌舞伎や講談で「天下の大親分」として劇化され、その人気は爆発的だった。1851年、幕府に捕えられた忠治は磔(はりつけ)の刑に処された。享年42歳。「赤城の山も今宵限り。生まれ故郷の国定村や、縄張りの上州をあとに……」という名セリフは歌舞伎・映画を通じて日本中に広まり、今も群馬県の民衆的英雄として愛されている。法を犯した博徒でありながら農民を守った人物として、日本の「義賊」文化の象徴的存在となった。