来島通総
来島通総
来島水軍最後の当主
1561-1597 · 享年 36歳
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生涯
永禄4年(1561年)、伊予来島村上氏当主・村上通康の四男として生まれた。母は主君筋にあたる伊予守護・河野弾正少弼通直の娘。永禄10年(1567年)に父が病死すると、わずか7歳で来島城主として家督を継いだ。天正10年(1582年)、羽柴秀吉の勧誘を受けて主家・河野氏や毛利氏に反して織田・豊臣方へ寝返り、来島城を追われて本拠を失った。秀吉はその後も「来島、来島」と繰り返し呼んで重用し、姓を村上から来島に改めさせたと伝わる。天正13年(1585年)の四国攻めで先鋒として戦功を挙げ、伊予風早郡に1万4000石を与えられて大名に列した。慶長2年(1597年)、慶長の役で水軍を率いて朝鮮半島へ出征。9月16日の鳴梁海戦で先鋒を務め海峡に突入したが、潮流の地の利を得た朝鮮水軍の反撃を受けて戦死した。享年37。
人物像
主家より天下人の器を見抜く現実主義者。7歳で当主となった苦難を乗り越え、大勢を読んで河野・毛利から離反する大胆さを持ち合わせた一方、最後は水軍武将として先陣を切り戦場で果てる武人らしい最期を遂げた。
歴史的意義
来島城跡は村上海賊(村上水軍)の拠点として国史跡に指定され、2016年には日本遺産「日本最大の海賊、来島村上海賊」の構成文化財となった。通総の子孫は伊予国吉田藩主として存続し、来島水軍の記憶を今に伝えている。
さらに深く
家系図
?-1567
村上通康
来島村上氏当主。
本人
来島通総
1561-1597
─ 完 ─
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