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PERSON
楠木正成
楠木正成
太平記の忠臣
1294-1336 · 享年 42歳
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生涯
1294年頃、河内国(大阪府)赤坂の武将の家に生まれた。出自は楠木一族の棟梁であるが、それ以前の詳細は不明。1331年、後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに真っ先に応じて挙兵した。幕府軍が圧倒的な兵力で攻め寄せる中、赤坂城・千早城での巧みなゲリラ戦で大軍を足止めし、奇策で幕府の権威を傷つけた。千早城の戦い(1333年)では百騎足らずで数万の幕府軍を約100日間釘付けにし、鎌倉幕府滅亡に大きく貢献した。建武の新政(1333年)後は後醍醐天皇を補佐して朝廷の軍事指揮を担った。しかし足利尊氏が離反して新政が崩壊し始めると、1336年に九州から上洛してくる尊氏軍を迎撃するため湊川(兵庫)に陣を張った。幕府軍・新田義貞と連携した作戦が齟齬をきたし、正成は圧倒的に不利な状況の中でも天皇の命に従い出陣。弟・正季と「七生報国(七度生まれ変わっても国のために戦う)」を誓い合い、一族郎党と共に壮絶な討死を遂げた。享年42歳とされる。
人物像
智勇兼備の武将。千早城での奇策に見られる知略と、湊川での壮絶な最期に表れた忠義心。「非理法権天」を旗印に掲げ、天皇への忠誠を貫いた。後醍醐天皇に敗北必至を進言する合理性も併せ持った。
歴史的意義
日本史上最高の忠臣として崇められ、皇居外苑に騎馬像が建つ。明治以降は「大楠公」として国民的英雄に。「七生報国」の精神は近代日本の忠義の象徴とされた。
逸話・エピソード
湊川の戦い——「七生報国」と楠木正成の最期
楠木正成は後醍醐天皇の倒幕を支えた南朝の英雄だった。建武の新政崩壊後、足利尊氏が大軍を率いて京都に攻め上がった際、正成は勝ち目のない戦いと知りながら神戸・湊川で迎え撃ち、1336年に討ち死にした。「七生報国」(七度生まれ変わっても国に報いる)という辞世とともに弟・正季と刺し違えて死んだ逸話は、後世の忠義の模範として語り継がれてきた。
関連する歴史的事件
1333
千早城の戦い
1333年、楠木正成が金剛山の千早城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に籠城し、幕府の大軍を相手に長期間持ちこたえた合戦。楠木正成はわずか千人足らずの兵で千早城に籠り、奇策・罠・心理戦を駆使して幕府軍数万を翻弄し続けた。正成は偽の和睦交渉、落とし穴、大岩を転がす防御など多彩な戦術を駆使した。この千早城の長期籠城が幕府軍の主力を南山城に釘付けにし、その間に全国各地で倒幕の動きが活発化した。新田義貞が鎌倉を攻め落とし幕府が滅亡する間接的な要因を作った正成の戦略的籠城戦として評価が高い。
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─ 完 ─
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